無意識日記
宇多田光 word:i_
 



先週金曜深夜の「MUSIC HUB」2回目のゲスト出演は、いやはや、全部もってかれちゃったねぇ。

番組はとってつけたように『ともだち』のオンエアから始まった。「それは初回にやるヤツや」と思わずツッコミを入れてしまった。好き好んで周波数を合わせている我々には周知の事実だが、たまたま聴いていた人が「あ、宇多田ヒカルだ。なんでこんな時間にラジオ出てるんだろ」と思ったタイミングで「実はこの番組のパーソナリティが『Fantome』収録のこの楽曲に参加してまして」と紹介するのがセオリーだろうに。2週目にオンエアしちゃったよ。今更だよ。

多分、番組の編集も行ったり来たりのグダグダなのだ。編集の人に同情するよ。酔っ払い同士の会話を、なんとか辻褄が合うようにと切り貼りしているのだろうから。安心して欲しい、しっかり元々の2人のグダグダさが伝わってきてますよ(にっこり)。

しかし、それも最初の27分だけ。いやそれ30分番組の9割、90%やんと言われたらその通り。でも最後の1割、10%、3分間が凄まじかった。前々から予告していた「カラオケ」タイム。聴いた全員が非難轟々であった。「こんなハイクォリティーなパフォーマンスをカラオケ呼ばわりするなんて」と。「羊頭狗肉も甚だしい!」と。恐るべきバージョンが最後の3分間に待っていた。

選曲は、椎名林檎嬢直々提供の「丸の内サディスティック(EXPO Ver.」マイナスワン(ツーかな?)トラック。即ちリード・ヴォーカルを抜いてあるミックスだ。確かにこれはシングルのB面に「(karaoke version)」と表記されて収録されるヤツだけれども、だからってそれを「カラオケ」と呼べるのは、誰の歌も乗っていないか、乗っていても素人がカラオケボックスで酔っ払いながら歌った場合だろう。如何に同じく酔っ払っていようが(いまいが)本家より歌唱力が上な人間が本気で歌ったテイクをそう呼んではいけない。

おとろしいことに、なりくんのツイートによるとこのテイクは一発録りらしい。確かに2ヶ所ほど音程がフラついていて普段のヒカルなら直したがる感じだったのをそのままオンエアしていたのでもしかしたらそうなのかもとは思っていたが、いやはや。それにしても、唖然とさせられるぜ。

基本的にデュエットだし、EXPO Ver.という事で演奏時間3分足らず、そんなにヒカルが登場する場面が多い訳ではないが、その時の迫力たるや。こんな化け物とデュエットしてサマになっているなりくんの歌唱力もかなり図抜けている筈なのだが、それでも添え物にしか聞こえないのだから、いやはや、凄い。

ヒカルは丸サを(そういやこの曲の略称なんていうの?丸サ?丸サド?なんだかマルキドサドご当人みたいになるなー)日本語詞パート中心に組み替えて歌った。英語でこのレベルの歌唱力の人はザラにまではいかずともそれなりに居るかもしれないが、日本語でここまで歌えるヤツは居ない。椎名林檎嬢のオリジナルと聴き比べると、オリジナルは全く線が細くどちらがカバーかわからない程だ。紅白に出れば他のJ-pop女性歌手を圧倒する歌唱力と存在感を示すあの椎名林檎がまるで幼く心細い妹のように聞こえる。日本語歌手宇多田ヒカル、あらためて恐るべし。J-waveは1ピコナノ秒も悩む事なくこのテイクを公式音源化すべきだ。これはもう音楽産業に携わる者の義務であるよ。

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チャック・ベリーが逝った。あれやこれやは昨晩呟いたので略。いちばん多い反応は「お疲れ様」「まだ生きてたのか」「バック・トゥ・ザ・フューチャーの人」の3点だったな。日本だとそんなもんだろう。やっぱり大ヒット映画で取り上げられると知名度が桁外れになる。

それは別に日本に限った事ではない。アメリカの歴代レコード(CD)売上上位には、マイケル・ジャクソン、AC/DC、イーグルスなどに混じって「サウンド・オブ・ミュージック」「サタデー・ナイト・フィーバー」「ボディガード」といった各時代の映画サウンドトラック盤が名を連ねている。全国民を巻き込むような特大ヒットの為には映画の力は欠かせない。

そもそも、ロック&ロールだって最初のヒット曲は「ロック・アラウンド・ザ・クロック、映画「暴力教室」の使用曲である。そういやこの映画観た事ないや。この曲が1955年に8週連続1位に輝いた所からロックの歴史は始まっている。時計の針が動き出したのだ。

その事実を踏まえるとチャック・ベリーの訃報が「ロックの創始者死去」という見出しの許でリリースされているのは奇異といえるかもしれないが、前も書いたように彼はその1955年当時の流行にうまく乗っかった「調子のいい男」に過ぎない。様々な要因が伝えられているが、1950年代半ばの「R&Rブーム」は短命であり、ディスコグラフィをみてもチャックのヒット曲はこの数年だけでピタッと途絶えている。恐らく、60年代には「時代遅れ」として忘れられていたのだろう。

彼が今こうやって「ロックの創始者」として崇め奉られているのは、彼の次の世代が恐ろしく巨大な存在になったからだ。ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンである。彼らはチャックからの影響を隠さなかった。黒歴史だろうがストーンズのデビュー曲はチャックのカバーなんだから。彼らがロックという大衆文化を肥大化させた事でチャックは伝説的な存在になったのだ。実態はただのチンピラ親父である。

なので、若い人たちが彼の事を知らない、聴いてみても全くピンと来ない、というのも無理はない。世代が違い過ぎる。しかし、ジョン・レノンやキース・リチャーズ、ジョー・ベリーといったロックの巨人たちが同じフレームに収まっている写真や映像を目にすると、彼らが途端に少年のような表情になっているのが手にとるようにわかる。彼ら巨人にとって存命する真のスーパースターの1人が、チャックだったのだ―という事実は、今回の訃報で知れ渡る事になったのではないだろうか。それでもう十分だ。彼の遺したものの巨大さに較べれば、彼が今生きているかもう死んでいるかなんて関係がない。彼がどんな人間だったかなんて更にどうでもいい事だ。そう言い切ってしまいたくなる。しかし、これから、彼の名前を皆忘れ去ったとしてもロックンロールの遺伝子は末長く受け継がれていくだろう。なんだか、それで総てはOKなんだ。気にする事はない。

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