無意識日記
宇多田光 word:i_
 



あ、そっか。先週の『印象が二転三転する14秒』の続きにまだ手をつけてないんだったっけ。ほなその話をちらっと。


『君に夢中』の2番の歌詞でその14秒にあたるのはこちら。

『嘘じゃないことなど
 一つでもあればそれで充分』

これが、

『嘘じゃない/
 ことなどひとつでもあれば/
 それで充分』

という風に歪に区切られて歌われてるって話だった。

こちらは1番の『心の損得を…』以上に聴き手を翻弄する。まず、『嘘じゃない』で切られるから何か自分の真実を誤解されてそこを訂正したいのかなと一瞬思わされる。なのにそこから『ことなど』がつづくからさぁ大変。途端に「え?どゆことどゆこと?」と不安になる。

というのも、日本語の「など」って副助詞が曲者なのよ。本来の意味である「エトセトラ」─即ち例示や列挙の為に使うだけではなく、蔑視や軽視などの否定的なニュアンスを含ませる用例があるのよね。「…などと犯人は供述しており」とか「お前の技など効かんわ!」とかそういう場合の「など」ね。この『君に夢中』の『嘘じゃないことなど』の『など』にも、この時点で何らかの否定的なニュアンスが託されているのでは?と不穏な空気になるんです。

その不穏な空気を背負って次に繰り出されるのが『ひとつでもあればそれで充分』だ。『嘘じゃないことなどひとつでもあれば』ってパッと一続きに言われてどう思う? 「嘘な事がひとつでもあれば」なら結構次が予想しやすい。「樽一杯の泥水にスプーン一杯のワインを入れると樽一杯の泥水になる。樽一杯のワインにスプーン一杯の泥水を入れると樽一杯の泥水になる。」という私が兎に角よく引用するマーフィーの法則を持ち出すまでもなく、言うことにひとつでも嘘が混じってたらそれはもう後の言葉が全部真実だとしても信用できなくなるよね、うん、それならわかるんだけど、ここの歌詞は『嘘“じゃない”ことなどひとつでもあれば』なんだ。“じゃない”なのよ。だったら最初っから「本当のことはひとつでもあれば」って言ってよ!紛らわしいよ!と聴き手は思わされる。

そうなのよ、こういう言葉の並びにすることで聴き手は、それぞれの一節を聴く度に

「嘘じゃない!信じてよ!」
「嘘がひとつでもあるなら信じられない!」
「本当のことがひとつあればいい!」

という、全く異なった三つの主張を「予想させられる」のだ。これはもう非常に悪質である。翻弄されるなんてもんじゃない。何度も騙される。そう、嘘を吐かれるのよ。この人を喰ったようなメロディの切り方は「嘘吐きの所業」であって、まさにこのパート自身のことを歌っているようなものなのだ。

だが、歳を経たJ-popファンであれば実はそこまで動揺しない。というのも、我々オールドリスナーは1992年に槇原敬之が発表した名曲「もう恋なんてしない」において

「もう恋なんてしないなんて
 言わないよ絶対~♪」

という歌詞を経験しているから。これを初めて聴いた時誰しもが「え!?結局恋はするの?しないの?どっちなの!?」と激しくツッコんだ。紛う事無きミリオンセラーの大ヒット曲だから多くの人々がそうツッコんだ。その時の経験があるのでこのヒカルの

『嘘じゃないことなど
 一つでもあればそれで充分』

程度ならそうそう動揺は…したよやっぱり!(笑) メロディの区切り方の意地悪さが槇原敬之より遙かに絶妙だったからな! こんなとこでも作詞作曲能力の高さを発揮しおってからに…。そう、作詞と作曲両方を手掛けているからこその、詞とメロディを連動させた演出になってるのだココは。勿論、歌い方のニュアンスも細かく変化させて解釈のミスリーディングを助けている。シンガーソングライター宇多田ヒカルの面目躍如たる一節であるとは言えるだろう。でも、なわだかんだで、やっぱり意地が悪いよ!(笑)

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週末の話題をかっ攫ったのは「水卜麻美&中村倫也、結婚」の話題だった。両者の結婚報告ツイートは夫々100万いいねを突破した。いいねが10000を越したときいて「五桁は凄いな!」とか言ってた時代を知る者としては隔世の感が凄い。

それにしてもこの2人、初見で名前正確に読める人一人もいない説を唱えたくなるな。残念ながらこの2人共の名前が初見な人をみつけるのが難しいのだけど。ゴシップをチェックする層で。「みうらあさみ&なかむらともや」なんだって。難易度高いよ。

そんな2人だけど、交際の噂(無責任な記事の事だね)は一切上がってなかったらしい。故に夫々の熱心なファンの皆様も寝耳に水だったそうだ。接点といえば、ヒカルの『Time』を主題歌に起用した日テレ系列ドラマ「美食探偵 明智五郎」で、主役の中村倫也が日テレ系情報番組「スッキリ」にPRに訪れた際、同ドラマに声で出演していた水卜麻美に好感を持ったらしきことを口にし、水卜もそれに喜んだみたいなことが記事に書いてあったけど、その程度でしかなく、どうやらみんなして全くのノーマークだったのだと。この時代にそれは凄いね。

しかし、各地のコメントを読むと、確かにこの2人の組み合わせは想像もしてなかったけど、言われてみれば凄くお似合いだという称賛の声が圧倒的だった。それぞれに高かった好感度が、それぞれに「いい相手を見つけた」&「見る目あるじゃん」ということでますます上がったという、なかなかに奇跡的な結婚報告となった。


って、前フリが長くなったな。今回そのリアクションをみて、ポピュラー・アートのクリエイティブの基本をみる思いだった、というのが今回言いたい主旨なのです。誰もがその発想に気づかず、しかし一旦気づいた後はその発想の妥当性や美的な価値などを納得せざるを得ないという、この状況がね。

ただ単に今まで誰も発想したことのない事を言うだけならカンタンだ。「宇多田ヒカルの『DISTANCE』、マスカルポーネチーズを添えてサンオイルで召し上がれ」という日本語文を書いたのは今の私が人類史上初だろうけど、そこには何の価値もない。言ってる意味もわからなければ実現することでもないからだ。曲にチーズ添えてオイル掛けるって何さ!?という具合。誰も思い付かないというだけでは発想に価値がない。

一方で、「ご飯に卵をかけてうただきました。とっても美味しかったです。」という文章は、卵かけご飯が好きな層から多いに納得と賛同を得られるが、新しい発想でもなんでもない。既に広く知られているからだ。そういう意味で陳腐ですわね。

なので新しく価値のある発想、素晴らしいポピュラー・アートのクリエイティビティは、「誰も思い付かなかった」上で更に「すぐさま納得と賛同と喝采を得られる」ことが至上となる。いつも出す例だが、『COLORS』であのキーボード・リフとあの歌メロを組み合わせたセンスは本当にクリエイティブだった。メチャメチャ大ヒットしたしな。

今回の「水卜麻美&中村倫也の結婚」という“事件”も、こうやってびっくりさせられた上で“言われてみれば”しっくりきた、という点で、見事なクリエイティブの見本だったと言える。いや人の人生をクリエイティブって何なのさという気もするけれども、基本を押さえるための引用ということでどうか御容赦願いたい。お二人さん、ご結婚おめでとさん。末永くお幸せに。

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