無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回日和ったので今回は攻めるか。

さっきツイッタートレンドに「近親相姦」という4文字熟語が入ってた。百合ばかり検索する私へのパーソナライズかな?と一瞬思ったけど件数からするとホントにトレンドになってたのかな。

ヒカルさんはアルバム『初恋』発売時のインタビューで、要約すると「恋愛感情も親との関係性から生まれる」という趣旨の発言をしていた。つまりここを誤解すると近親相姦的な関係なのか!?と色めき立つ所なんだが論点はあクマで感情形成上の由来の話であって、例えば両親の仲睦まじい姿をみて恋愛とはこういうものかと学ぶ、とかでも構わない訳だ。勿論、近親相姦でも構わないんだけど。

性的少数者に対する理解は日に日に深まっているように感じるが(無理解との分断の溝はそれよりも遙かに甚だしく深まっているようにも思えるが)、これが近親相姦の話まで出てくると拒否反応はかなりのものになるだろう。しかし、トレンドでも取り上げられていたのだろうが、ギリシャ神話もローマ神話も旧約聖書も新約聖書も近親相姦満載で、歴史と文化を学ぶ時には避けて通れないテーマである。それと同時に、今現在不快感を感じるならそれについても正直であればいい。同性愛者の中には異性愛なんて気持ち悪くて直視できない、という人もいるだろうけどそういう気持ちもまた尊重されるべきでね。それを公言して誰かを侮辱しない限りは、ね。

ヒカルが歌詞で切り込んだのは精神構造そのものとその形成過程についてであって、近親相姦という単語が踊るときの肉体関係について特に語られている訳ではない。だが、なんらかの真理は突いているのだ。

少し違う角度から話をすれば、『真夏の通り雨』の歌詞だ。リリース時にここで書いたことだけど、『Fantome』収録曲の歌詞の二大テーマは「性」と「死」であり、『真夏の通り雨』はその「ひとつの歌詞」で、性と死それぞれのテーマについて歌ったとんでもなくアクロバティックな作詞をもつ。だがこれを逆からみれば、喪失と恋愛に対する感情の精神的形成過程は幾らか共通していて、それをヒカルは掬い取って概形化したのだということも出来る。

これと似たようなことを『初恋』でも成し遂げたとみるのが自然なのではないかな。恋愛感情の生成過程をみつめる事で「初恋の瞬間」の必然性を見極めるにはまず親との感情的な関係性から始めなければならなかったと結論づけた。別に直接親に恋する事が必要な訳じゃない。勿論親への恋心でもいいんだがアゲイン。

裏を返せば、精神的な近親相姦関係を実地に持っている現実の人たちは、そういった感情生成過程についての理解が人より深いのかもしれない。そんな風にも思うのだが、流石にまだLGBTQにも慣れていない段階でその話をし過ぎるのも気が早いか。

ヒカルは、タブーも含め総てに踏み込んで作詞をしている。前回取り上げた『あなた』でもそうなのだが、しかし、それをポップ・ミュージックに乗せる時には本来アウトな表現をセーフな所にまで持ってきて落とし込む作業をちゃんとしてくれている為我々は気まずい思いに惑わされることなく歌を楽しむ事が出来るのだ。いや勿論、楽しめるなんて気軽な感じではなく本気で重々しく感動して救われたという人も多かろうが、気まずさに煩わされないからそうやって素直に重く見る事が出来るのよね。気まずさには敵わないのよ。今私も結構綱渡りしてるけど、難しいわこれは!

ということで、世情が進めばヒカルの歌詞も更にもっと踏み込んでいくのだろうが、それは世間についていった結果ではなくて、小さな頃から作詞家宇多田ヒカルは自身のクリティカルな部分を受け容れて貰える状況になるまで待ち続けているのだ、きっと。つまり、既にもうヒカルは未来を生きている。というか、生きてきて戻ってきたからデビュー曲のタイトルが『time will tell』、『時間がたてばわかる』なんだな。歌詞が気まずく響かない時代まで待機している感情がやまほどあるのだから、ヒカルの作詞にネタ切れなんて永遠にやってこないだろうよ。だからヒカルさん、ずっと歌を作り続けてくださいね♪

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そっか、間もなくイラク戦争開戦20年か。当時ヒカルがメッセでそれまでにないほど怒り狂っていたのを思い出す。よくあんな立場でその発言が出来るなと胆力の強さに慄いたものだが、なるほどその後の国際政治の歴史をみるに…という程詳しくないのだけど、「あの開戦は間違いだった」という評価がすっかり定着してしまった事を考えるとヒカルの怒りはごもっともの極致だったのだなと改めて合点する。極論すればどの開戦も間違いなんだけどね。

今のヒカルは流石にそういった発言は控えるようになった。インターネットにアクセスする人数が違い過ぎる。20年前はまだまだパソコンとガラケー(当時まだこの呼称はなかったか?)が主体で、Web上で発言する人は積極的な層だった。今やふらりと外食してもスマホがないと注文1つ出来ないみたいな、ネット接続が義務かした社会になっていて、消極的な多数派が有名人の発言を見ているのが現実だ。この状況では幾ら妥当な発言をしてもどう曲解されて歴史に名を残すことになるのかわかったものではないので、政治的な発言は極力控え、する時も慎重に慎重を期するようになった。これも環境適応変化の一環ね。

その割に『あなた』では『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も』などという直接的な表現を使ってくるなど、意識の低下どころか歌の歌詞にしてしまうほど今でも腹が据わっているのもまた事実。オフレコでいいなら言いたいことやまほどあるんだろうなと。親しい友人と飲んでたら朝までそんな談義をしたり…息子が家で待ってるのに朝帰りはしないか。

ウクライナへのロシア侵攻が本格的に始まってもう間もなく13ヶ月。どの戦争が報道されるかというのは日本語圏では「西側の都合」が大きくて、極東の国なのに大変なことではあるのだが、その都合に引っ掛からないアフリカ大陸での様々な紛争などは、そもそも余り報道されないから我々は存在自体知らなかったりする。世界のあらゆる国と深く貿易と交流を行うようになれば報道も変わるのだろうけど、非民主的国家との付き合いは注意が必要ってのはこの20年で痛感する人も多いだろう。

そんな中で音楽というのは国境を越えて伝わっていく。ストリーミング・サービスのお陰で宇多田ヒカルの歌が様々な国で聴かれていることを知り、聴かれていることを知ってその国の名前を初めて知るなんことまで有り得てる。今はすっかり翻訳機能も定着して、各国語に翻訳されたリリックビデオなども放流されるから、様々な思想を持つ国々でヒカルの歌詞が味わわれていくことだろう。J-pop市場では非宗教的、非政治的な歌詞が好まれるが、200を数える国と地域を相手にするとなるとはたしてどんな歌詞がこれから顕れるのやら。イタリア語圏やスペイン語圏のリスナーのリアクションがこれから増えるのかしらん。

…ふむ、踏み込んだ話をしてややこしいことになりたくないと思ったのか当たり障りのない話に終始しちゃったな今回の私は。ま、そんな朝もあるって事で。

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