無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前に『Rule(君に夢中)』の一節、『The second guessing I do is not doing me any good』を「くよくよしててもいいことなんてない」みたいに訳したのだが、これ、そういえば日本語版『君に夢中』の歌詞に、全く同じ意味ではないけれどここから発展して出来たと思しき一節があったわ。それが

『心の損得を考える余裕のある
 自分が嫌になります』

なのだ。「発展して」と言えそうなのは、それぞれの一節の後に来る歌詞が似ているから。『Rule』の方は一行経て『So won't you come and make it stop?』(だから来て止めてくれない?)で、『君に夢中』の方は『今どこにいる? すぐそこに行くよ』だ。「会いに来て」と「会いに行く」で視点は逆だが言ってる事は大体同じだ。


さて、この類似点をみてみる為に日本語歌詞の方を復習してみる。この

『心の損得を考える余裕のある
 自分が嫌になります』

の一節はなかなかに独特の表現だが、そのメロディ運びからヒカルがここをどう受け取って欲しいかというのがみえてくるのだ。

上記は文字で書くと二行だが、メロディに沿って区切ると

『心の損得を考える/
 余裕のある自分/
 が嫌になります』

という風になる。特に『~自分が~』を『自分』までと『が』以降に分けているのが耳を引く。これってあれだよね、宇多田ヒカルの歌詞の特徴といえば『Automatic』の冒頭で『七回目のベルで受話器を』を『な/な回目のベ/ルで受話器を』って奇天烈に切り裂いて歌ってたからあれと同じ感じよね?と思われるかもしれないがさにあらず。この時はメロディとグルーヴを優先するためにこんな区切り方をしていたが、ここでは他の動機で奇天烈に区切っているのだ。切り方が奇天烈なのは同じだけど。

ここ、初聴時にはまず『心の損得を考える』までがひとまとまりに受け取られるので聴き手は一瞬、「お、ここから損得勘定の叙述が始まるのか?」と思ってしまう。これからの歌詞の方向性の「宣言」だと読み取ってしまうのだ。「これから心の損得を考えようと思います」みたいな風に。ところが実際はここで文章が切れておらず、次の一節への修飾節に過ぎなかった事が一旦間を置いて『余裕のある自分』が歌われた時に明らかになる。なんだよ『自分』の解説かよ自己紹介だったのかよ、しかもちょっと余裕があるとか自慢入ってるヤツじゃん…とこちらが印象を変えたその瞬間に今度は『が嫌になります』が歌われるのだ。「なんなんだよ、余裕綽々な自分を自慢してるんじゃなかったのか! 寧ろ全く逆で、嫌気が差してたのね!」と、聴き手はこのたった14秒で印象を二転三転させられ翻弄されてしまうのだ。このアップダウンを狙ってヒカルはメロディと歌詞を書いている。全く以ていつも通りに巧みである。

以上は1番の歌詞だが2番でも同様だ。

『嘘じゃないことなど
 一つでもあればそれで十分』

の二行を

『嘘じゃない/
 ことなどひとつでもあれば/
 それで十分』

と区切る事で、ここでも聴き手の印象を二転三転させている。この翻弄具合によってヒカルが何を表現したかったのかの話からまた次回、になるかな?
 

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さて次はその『40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios』の空間オーディオ版のリリースが待たれる所だが、まだこちらは規格として黎明期、手探りな試みの一環という段階か。3DVRの時から言っているが、まだ今は技術を整えてる段階であってそれが作品性とどんな相互作用を生むかという段階までは来ていない。いや、あたしが知らないだけでもう既に世界各地で試みられてるんだろうけど、それがこっちまで届いてないということなのか…。

この間発売された「Sound & Recording」誌もチラッと読んだのだけれども、なるほど携わっている人の技術力の高さは呆れる程だけれど当日アクセスを断念した身としては少し半目にならざるを得なかった。いや彼らがそこの担当じゃないのはわかっているんだけどね。

なんだろうね、これだけの技術を擁しながら受け手に届いてない為に無意味に帰してるのって、喩えるなら高級料理フルコースを厨房で作り上げておきながらカトラリーや食器などが用意されていなかった状態か。美味そうやけどこっちのテーブルまで届いてないよ!届いてもスプーンもフォークもないよ!って感じで。どれだけ美味いもん作っても口の中に入らなければただのゴミと変わらない。いや、見た目や香りで楽しめるってそれはそうなんだけども。

結局は全体を統括する人間の手腕次第なのだが、扱う技術が高度過ぎると何が可能で何が不可能なのか、どの工程にどれ位のコストや時間や人員が必要なのかというのがわからずマネージメントしようにも途方に暮れる。音楽プロデューサーにミキシング・エンジニアが多いのは、結局の所現場の作業を知らないと全体の統括も無理なんだってことなのか。

なので、3DVRにしろ360Rにしろ、技術が陳腐化して可能不可能やコスト目処がわかるようになってから取り入れた方が、コンテンツ/ソフトに携わる人間としたらメリットが大きい。一方で、ソフトを作る人間が技術の刷新にも興味を持っているというのであれば、失敗込みでチャレンジするのもいいだろう。

そう考えると、ほどほどにしろいろいろにしろ、総括者であると見做されがちなヒカルがあんまり先端技術に興味を示していない点が根本的な原因なのではという気もしてくる。いや勿論、スジとしてはヒカルはネームバリューと歌のパフォーマンスを提供する役割であって、プロジェクト全体の統括者でもなんでもないのだが、イベントのタイトルもイベント自体も名前と顔が出ずっぱりなので、圧倒的に主役感が強い。

それこそWBCが終わったばかりだから喩えに出すのだけど、栗山監督が「ダルビッシュジャパン」とまで言うほど今回の日本チームがダルビッシュ有を中心にして纏まったのは、彼がグラウンド上で圧倒的なパフォーマンスを見せたからではなく、普段の練習から細々とした気遣いと心配りで今回の大会に携わる人たちと触れ合い続けた、という面が大きい。勿論それ以前に彼の圧倒的な実積がものを言っているのだけれど、差し当たってに必要な「全体の方向性を司る人間の実地の役割」は、フォローや雑務といった、足りないところ、隙間を埋めていくような日陰な営みであって、そういうことをする人がほどほどやいろいろでは足りてなかったのではないかなと。「これホントに帯域足りてるの?」と責任ある立場から突っ込める人が居なかったんじゃないかな。要するにエピックとU3が目下の所絶賛「人手不足中」なんではないかなと。

ヒカルは既に音楽面で手一杯なのだから、宇多田ヒカルという看板とコンセプトを担う人材が沢山欲しいとこなんだけど、単純に人数が足りてなさそう。多分だが「え、こんな少人数でこのビッグ・アーティストの稼動を回してるの!?」とビックリするような人数なんでないかな。なんだかイケイケのVTRみると、まず人が多いのよね…。

こればっかりは構造的な問題なので仕方がないと言ってしまえばそれまでなのだけど、そこらへんの意識を全体で変えていかないと規模と知名度のミスマッチが今後も起こりかねないわね。映像商品騒動とかもあったなぁ。

救われてるのは、そうやってあれこれと騒いでるのは私くらいで、実際にはヒカルの評判に何ら傷がついていないことか。ならまーいいのかな。ヒカルが快適なら配信が一部観れないくらいどうってこと…あるよ!(笑) いちリスナーとしては、それでも改善できるとこから改善して欲しいわね。人は急には生まれないもんねぇ。

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