無意識日記
宇多田光 word:i_
 



散漫とか思われがちだが、光の場合ソレがない。メロディに特徴があり唱法も一定のスタイルを確立していてアルバム1枚キャリア11年通して1本シッカリ筋が通っているからだが、実は云う程強い個性の唱法ではない。アリーヤをはじめとした光の好きなシンガー達の歌を聴けば如実だ。ただ、以前述べた様に"日本語でこう歌った"のは光が初めてだろう。裏を返せば英語のUtaDAが歌唱力で注目される割合は減る訳だ。"日本人なのにこんなに唄えるなんて"という関心はやがて消える。寧ろ作曲家として"こんな曲にそんな歌唱が乗るとは"と云わせる曲が書けるかどうかが今後の鍵となるだろう。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




収束しオリジナルを越える事が難しくなってゆく。立脚点にする位の気概が必要だが技術的に追い付くだけでも大変だ。リトルリチャードよりチャックベリー、レッドツェッペリンよりAC/DCの方が後続に与えた音楽的影響がシーンの中で見え易いのは、個々の技量に頼る必要のない"型"を見いだした点が大きい。この理屈でいくと型に全く固執しない宇多田ヒカルは"当世一代限り"となる可能性が高い。孤高のケイトブッシュですら音楽的ミームの一部として後続達のサウンドに影響が息づいてるのが見てとれるというのに。光の個性が他者の音楽の中で踊る様な事態や時代は、果たしてやってくるのだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )