無意識日記
宇多田光 word:i_
 



この流れでは“詩の朗読”に関してひとこと語っておかねばなるまいて。(笑)

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 曲順に語っていこうと思っていたUD06ライヴレポなんだけど、折角なのでここのところ話題になっている、宇多田ヒカル・セクションからUtaDA・セクションにクロスオーヴァーする場所に置かれていたキリヤンの手によるものと思われる映像とSE(SoundEffect/サウンド・エフェクト(効果音))のコラボに乗っかっていた“詩の朗読”について、僕なりの感想をなるたけ簡潔に、先にまとめておく。

 私は7月、8月、9月と公演を観たわけだが、うち7月と8月には“詩の朗読”を聴くことができず(つまりキリヤンによる映像&SEのみ)、ついに体験できたのが9月の代々木であった。顛末をまとめておく。各人のライヴレポによると、どうやらこの“詩の朗読”は、7月末の特別ライヴハウス・ギグであった「ワン・ナイト・マジック・イン・オーサカ」で初めてお目見え、その後8月上旬の新潟公演、名古屋公演でも披露されたらしい。(二箇所四公演総てかどうかは、確認が取れていない) しかしその後さいたま2日間では不思議なことに一旦姿を消し、どうやら札幌でも読まれず、愛媛にて別ヴァージョンとなって復活、以後広島・代々木とそのヴァージョンが使われた、という顛末のようだ。

 ↓こんな感じ。
 
・7月初旬~下旬 仙台・静岡・福岡・大阪では映像&SEのみ
・7月~8月上旬 大阪一夜・新潟・名古屋では“朗読1stエディション”
・8月中旬 さいたま・札幌では映像&SEのみ
・8月下旬~9月 愛媛・広島・代々木では“詩の朗読2ndエディション”

 こういう流れであると推測されている。

 また、5月下旬のHikkiのメッセ(この日)には次のような記述があった。
 
--- 「私はこれからちょっと詩を書かなきゃいけないんだけど、くまちゃんどうする?」

そう、記念すべきくまちゃん(@写真)初登場の回だ。覚えておられるだろうか。


 以上のようなことから、次のようなストーリーを推測した。まず、ツアーの打ち合わせが本格化していたであろう5月、インターセクション用の映像&SEのデモ(或いはアイディア)をキリヤンが提示、その扱いの中で、Hikkiが詩を載せよう、ということになり彼女が5月下旬に書き始めるも、ツアー開始には間に合わず、やっと詩が完成し朗読が録音し終わり公演で使える状態だと確認され実際に使用されたのが7月末。ところが、実際に3ヶ所で使用してみたものの、Hikki自身が突貫工事の中(なんつっても6月はあ~たシンガーとしてのリハと公演の座長としてのミーティングの嵐ですよ。よくあれだけメッセ更新してくれていたなぁ、と呆れ返る。ありがと。)なんとか完成に漕ぎ着けたものだったため、出来には満足が行かず録音をしなおすことを決める。或いはもっとポジティヴに、公演で使っているうちに、詩の改変や朗読方法において新しいアイディアが沸き出でた、といったところか。いずれにせよ“詩の朗読1stエディション”は彼女の中ではベストなものとはいえなくなり、さいたま、札幌では使用を中止する。つまり、7月当初のカタチに戻した、ということになる。中途半端なものは発表すべきでない、という判断がその時点でなされたかどうかはわからないし、その判断が妥当だったかどうかもわからない。つまり、さいたま・札幌でも1stエディションを使えばよかった、ということもあとになってみればあるかもしれない。とにかく推測に過ぎないことなのでいろいろな考え方、捉え方が可能だ、としかここではいえない、ということだ。。


 それにしても素晴らしかった。私の中では、つまりそのキリヤンによると思しき「映像&SE」は、静岡の時点から代々木公演を見るそのときまで、時計の針を止めたままだったわけである。歌なりパフォーマンスなりMCなり演奏なり、といった点では、7月の静岡と8月のさいたま(私が体験した公演2つだ)では、Hikkiのその間のツアー経験や体調の差・会場の差などで、如実に違いがみられたわけだが、この「映像&SE」というのは、録画録音した素材をそのまま使用するだけであるので、結局はどこもかしこも同じなわけだ。勿論、私が気付いていないだけで、実はこちらも徐々に改変されていっていたのかもしれないが、とにかくそれに注意を払う気が起きないくらい、この「映像&SE」は最初、激しくつまらなかったのである。

 私は、恐らくここらへん界隈の中では、最も高くキリヤンの才能を評価している部類に入る人間だと思う。自分はCDやMD、カセットテープやMP3ファイルといった音源の類は山ほど所持しているが、映画のDVDを買った、という経験は、あとにも先にも「CASSHERN」一本のみだったりするのだ、実は。「世界最高傑作映画のひとつ」と断言して憚らないあの小津の「東京物語」すら持っていない。(別に私があらためて評価する必要がない作品だからいいか、というスゴイ理屈もあるんだが) それだけ、「これは持って居なくてはならない」と思わせた映画だった。彼の才能は、少なくとも歴代日本人映像作家の中ではトップクラスだと思っている。私が今昔の映像作家のラインナップなんかつゆぞ知らなくても、だ。他に誰がいるかいないか、という点を鑑みなくともその歴史的な凄みが伝わるのが紀里谷和明という男の恐ろしさ、そう勝手に捉えている。

 そんな人間が「つまらなかった」と断言してしまうのだから、これは正直よっぽどだと思う。読者の中には「いや、あれは素晴らしかった」と仰る向きがいらっしゃるであろうことは疑いがないが、とりあえずまぁ待ってくれ。とにかく7月に最初に彼による「映像&SE」を見せられて、私が溜息をついてしまったのは事実なのだ。

 まずなによりも、音楽のコンサートだというのにそこに全く「音楽性」というものが感じられなかったのが痛かった。流れが一切ないのである。キリヤンという男は何よりも真っ先に写真家なんだな~というのを思い知らされた時間帯だった。まずアタマの中に一枚一枚のスチールがあり、それの価値を見抜き具現化する才能、それが彼には備わっている。が、如何せんそれを時系列に適切に(タイミング等も含め)並び替える才能、というものがない。全くないわけではないが、彼のスチールに対するセンスとテクニックの余りの見事さと比較してしまうと、皆無と断言していいくらい、ない。「CASSHERN」に対する酷評の中で一番多かった印象があるのが「シナリオがわかりづらい」&「2時間半PV観てるみたいだ」の2点だった。映像美に文句をつけるのは、非常に高い基準に照らし合わせる向き以外には、非常に少なかったように思う。つまり、一瞬一瞬のインパクトはとにかくキョーレツなのだが、それをまとめて2時間以上の時間の中のどこでどう見せるか、というのが決定的に欠けていた、という評だった。無論異論噴出な見方だろうが、私はこれにある程度同調する。

 その、「CASSHERN」にみられた欠点が、あのわずか数分間の中でも感じられてしまったのである。恐らく3~5分くらいだったんじゃないか、と思うのだが永遠かと思うほど退屈に、間延びして感じられた。一枚一枚の絵の美しさはもうやはり絶品の域だったりするのだが、何しろその場は音楽のコンサート会場。こちらの目も耳も、音楽モード真っ最中であって、つまり時系列の中でのリズムやメロディの波に40分間も慣らされてきた挙句のこの「映像&SE」だったものだから、その流れの悪さ、リズム感やメロディ感の欠如・・・即ち「“(映像とSEにおける抽象的な意味での)音楽性”の欠如」の甚だしさは耳を覆わんばかりだった。何しろそのときの私、ひとつひとつのカットは覚えているのだが、それがどういう順番で並んでいたのか、全くといっていいほど思い出せないのだ。もしかしたら彼の中にはあの順序に何か意図があったのかもしれないが、少なくとも私にはまるで伝わってこなかった。ただ、スチールとして美しい場面の無造作でランダムなスライド・ショーに過ぎなかった。

 しかし。代々木で私の印象は一変する。
 
 そこに、ストーリーがあった。鬼のように高質な音楽性が突如、そこに出現していた。
 
 まるでルビンの壷が向かい合う二人の横顔に変貌するが如く、それまでと全く変わらなかったはずの映像と効果音が突然意志をもち生命を宿し、私の目と耳を釘付けにした。モノクロとセピアの印象しか私の記憶に残さなかったカットの数々が、ショットのひとつひとつが、鮮やかな色彩を伴って次々と心の奥底に突き刺さっていく。まるで目の前で何度見せられても全く想像もつかなかった何十という数にのぼるテーブルマジックのタネを全部いっぺんに明かされたような、目も眩むような時間が私の眼前を過ぎ去っていった。そして、数分に渡るその印象の波の連続を統括していたのが、まるで虚ろに綴られるひとりの女性の呟きだったのだ。正直に告白してしまえば、私は一文たりとて、そのときに呟かれていた内容も表現も記憶していない。ただただ、そこに圧倒的な存在が、表現の威力が、宇宙を外から抱擁するスケール感が、奈落の底の底まで見通すような超越的な視点から描かれていた。そこに拡がる見たこともないような風景は、私にあの屈指の名盤「ULTRA BLUE」で体験した情景の数々の続編を夢想させた。

 「BLUE」の諦念と達観の彼方の霧を抜け、「海路」に示された黄泉への扉と道筋を手繰り、光の闇と闇の闇が交錯し悪魔が会話を交わすテーブルに着く。その筆舌に尽くし難い感触は、まさに次の楽曲“Devil Inside”への序章に相応しい漆黒に満ちていた。これこそが表現の、これこそが人間の夢幻の可能性だ、と愕然として私は会場に響き渡る虚ろな呟きに黙って支配されるしかなかった。その瞬間、その芸術家は隠された意図と不世出の黒い煌きの匂いをほんの一瞬だけ匂わせながら、音の壁と闇歌姫の傀儡を舞台上に出現せしめたのであった。


 未だに、その解釈に私は頭を悩ませている。DVDに、実際にはさいたまで披露されなかったこの“詩の朗読”が収録されると知り丁度安堵しているところだ。まさかあの超強烈な暗澹たる印象だけを私の心に置き去りにしたままあの詩と二度と邂逅できないというのならばそれは彼女にいつまでも触れていたいと願う者に対して余りにも酷だっただろう。ドキュメンタリーとしてのライヴDVDの価値は一歩譲る結果になってしまうかもしれないが、その英断には素直に拍手を送りたい。だってもう一回聴きたかったんだもん。


 それにしても、あの強烈な印象を、一体彼女はどこから運んできたのだろう?? 何より不思議だったのが、“この時間帯”の創作過程である。上述のように、恐らく先にキリヤンによる単独の映像&SEのアイディアが提示され、彼女の詩が乗ったはずなのだ。もし逆、つまり詩が先に存在しそれに彼が映像とSEを付帯したのだとしたら、映像とSEのみが先にお披露目されるはずがない。トラブルによって中途で朗読の録音の披露が妨げられた、という低い可能性しか考えられなくなる。やはり、あのキリヤンの作品が先にあって、あとからヒカルがそれにことばを添えた、と解釈するのが、限られた情報しか存在しない今、自然であり妥当だと思う。

 私には最初、彼による映像は、断片的なイメージをただ無作為に、何の意図もなく並べたものにしか見えなかったわけだ。それが突然、あの呟きが加わるだけで、ストーリーを伴った「映画」として私に迫ってきたのは、まさに魔法が掛かったとしかいいようがない感覚だった。まるで、「私は、どんな断片の集まりにもストーリーを与えることができるのよ」と不敵に(しかし無表情に)UtaDAが囁きかけてきているようだった。そう、実は、先ほど僅かに触れたが、私はこの詩の朗読の内容を、殆ど憶えていない。それどころか、それが日本語だったかどうかすらあやふやだ。冷静に考えれば勿論そうなのだが、寧ろ、その素顔と素肌の狭間に窺えるギラギラした視線の源はUtaDAのそれに近いように映った。彼女はUtaDAのときの方が、よりパーソナリティを自由に表現できている、という意味のことも昔語っていたように思う(ソース失念)。それがこの詩の朗読において、日本語を通して初めてあそこで表現された、ともいえるのではないか。まさに、このパートは、宇多田ヒカルとUtaDAの橋渡しであるとともに、全き見事な「United」だったとしか今は思えない。

 そして、日本語にUtaDAとの繋がりを込める媒介が、夫であり仕事の長きに渡るパートナーである紀里谷和明氏だった、というのが興味深いわけだ。

 極端に妄想を進めれば、いわば、紀里谷氏はヒカルにとって、最も挑戦し甲斐のある“敵”なのではないか、と思える。彼女は、読書中毒であったり音楽に没頭していたり、と時間軸に沿った流れに身を任せる或いは紡ぐことにかけては天才的だといえる人間だ。一方で彼は、時間をどこまでも短く切り取りゼロの極限にまで達したときの一瞬の印象を鮮烈に磨き上げることに長けた人間である。正に対極。そのお互いがお互いの作品のそれぞれの特性を存分に活かしつつ、尚且つその二つを融合させようと研鑚しあう。友であり敵であるような関係。切り詰めた刹那の実在の印象を突き詰める彼方、彼は彼女の中に“永遠”を見い出し、何処までも何処までも遠くまで総てを見通すような慧眼の此方、彼女は彼の中に“今”を見い出した。そう考えると、彼との幸せの中で生まれてきたと思しきあの“光”の「先読みのし過ぎなんて 意味のないことはやめて 今日はおいしいものを 食べようよ 未来はずっと先だよ」の一節も非常に説得力をもって響いてくる。なにやらこの関係はまさしく人間における「男と女」の雛型なのではないか、そう私には思えてきたのだ。そこまで想像を巡らせると、あらためてこの二人の絆の強さには嫉妬せざるを得ない。なんだこいつら。本当に仲がよく、相手のことを必要とし合っている。とても割り込む隙間なんかない。その現在形が、男女の擦れ違い様を描いた古典的ドラマの如く、夫による絵々の断片の数々と妻による詩を交互に片方ずつ味あわせながら我々聴衆を困惑と混乱に陥れ然し最終的には見事という他はない出来に辿り着いた今回の「映像」と「詩の朗読」のUnitedだったのだ。そう自分に納得させながら、“光”PVのメイキングの仲睦まじい二人の姿をまた見直して、今度は全く違った溜息をつく私だった。


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コメント
 
 
 
Unknown (さくらひらひらありはるきゃしゃーん)
2006-11-11 22:59:06
詩の朗読の部分、こんなに何度も改編が
されていたなんて知りませんでした。

というか、ここで一つお詫びしたいことが・・・
あります

実は、私もi_とほとんど一緒と言っていいほど、
私のBLOG内のUTADA UNITED 2006の感想文
(つhttp://blog.goo.ne.jp/yslbabydoll159242/e/4612deffee014eea369d38ef412a5e1f
に載せた中で、
一番曖昧なのが、詩のところなの。
i_と同じ
>正直に告白してしまえば、私は一文たりとて、そのときに呟かれていた内容も表現も記憶していない。
理由で

詩の朗読に耳を傾けている最中、
宇宙でひとりぼっちになったような途轍(とてつ)もない孤独感や
説明しようも無い
エクスタシー(忘我の意で)を感じました。

ほとんど、仮死状態の機能していなかった頭で、
わずかにぼんやりとしたイメージだけで、
書き記してしまう私って、無責任(汗)

ところでところてん

マウスホイール必須って、あーた(笑)

といっても、肝心のマウスホイールって何のことか、分からないよ~(壊)

あれだっけ、マウスの裏のピンポン玉ぐらいのあのボールのこと?

>自分はCDやMD、カセットテープやMP3ファイルといった音源の類は山ほど所持

CDやMDの音もいいけど、カセットのあたっかみのある音質も好きなHALCAでした

わたしって変わってるわな(笑)
 
 
 
レスだレスだっ (i_)
2006-11-16 04:17:32

> はらはらきゃしゃーん

・・・そんなヒーローイヤ~!!(爆)
安心して助けられたいよねぇ。でも、
番組的にはハラハラドキドキの方がいいか~うーん。
(なにをいってるんだか・・・)

というわけで、そうなのです、
結構この“詩の朗読”、紆余曲折な変遷を経てるのよね~。
今回おいらも、こうやって纏めてみて
初めてわかったことばっかりだったよw


> 詩の朗読に耳を傾けている最中、
>宇宙でひとりぼっちになったような途轍(とてつ)もない孤独感や
> 説明しようも無い
> エクスタシー(忘我の意で)を感じました。

表現に用いた単語はオイラとかなり違うけれども、
たぶん、殆ど同じようなフィーリングを、
お互い感じてたみたいね~なんとなくわかるよ~。
それだけ、あの詩の朗読の場面は、圧倒的やったっつーことやね。
DVDで観るのがますます楽しみになってきたわ~
はるきゃしゃーんも同じように感じたとわかれば、ますますね!

マウスホイールってのは、
「20代はイケイケ!」のときにHikkiが
紫色のマニキュアして中指で弄くってた
マウスの左ボタンと右ボタンの間にある、
画面をスクロールさせるためのホイールのことさ~!
ちな!みにうちではマウスホイールじゃなくって、
マウススティックとでもいうんだろうか、スティックだw


> CDやMDの音もいいけど、カセットのあたっかみのある音質も好きなHALCAでした
> わたしって変わってるわな(笑)

そうか? まぁその若さでカセット知ってるのは貴重かもしれんね。(笑)
ほうぼうで書いてるけど、今私はAMラジオのあったかい音が好きだ~。
あれで聴く“ぼくはくま”はたまらんですたい。
放送があるうちに、AMでの放送をカセットで録音する、
なんてこともいいかもしれないわね~(^^)


> Hiron

トラックバック、どうもありがとう!!
今、このブログ、トラバを事前承認にしてるから、
コメントのタイミングずらしちゃってごめんなさいね~!!
こっちからもトラックバックさせてもらったので、
そちらの承認が確認出来次第、お邪魔しますね!

それにしても、この詩の朗読、よっぽどみんなの印象に残ったんだなぁ、と
他人事のように再確認中ですよまったくもう。(^.^)
 
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