相手の存在を認めるということは、自分の意識の中に相手が入ることを許すということである。相手と自分がつながって一つであると言ってもいい。反対に相手の存在を否定するということは、自分の意識の中に入ることを許さないということである。相手を否定する最たるものが戦争であり、殺人である。それを実行しようとする者は、意識上で相手と自分を完全に分けている。
それは単に意識の中だけで行われることではなく、からだにも反映する。ものを分け、比較し、選択し、否定していくことが過ぎれば、からだのバランスが崩れる。人であろうと物であろうと、その存在を否定していく程度が強いほど、自分のからだに与える影響は強い。バランスが崩れれば、キチンと「立つ」ことができなくなるだろう。キチンと立つこともできずに目指すものがあるのだろうか。
それは単に意識の中だけで行われることではなく、からだにも反映する。ものを分け、比較し、選択し、否定していくことが過ぎれば、からだのバランスが崩れる。人であろうと物であろうと、その存在を否定していく程度が強いほど、自分のからだに与える影響は強い。バランスが崩れれば、キチンと「立つ」ことができなくなるだろう。キチンと立つこともできずに目指すものがあるのだろうか。