20年前の今日、私は中国大使館に用事があった。パスポートを持って大使館にビザを取得しに行く予定だった。9時過ぎに飯田橋にある職場に着くと、珍しく上司がいた(私が勤めた4年間で、上司が先に出社していたことは恐らくこのときだけである)。テレビを観ながら「行くのはちょっと待った方が良い」というようなことを言った。
あの日もし朝一番に大使館に行っていたら、霞が関や六本木であの事件に出くわさなかったとは言えない。運が良かったのだろうか。しかし事件に遇ってしまった人は、運が悪かったでは済まされないほどの体験をしてしまった。わずか電車1本の差が、一生を変えるほどに。
運よくそれを通過できた人は、まともにそれを受けた人の重みを想像することしかできない。言い方を変えれば、想像することはできる。想像することは、単にアタマの中の出来事ではなく、実際にからだに影響がある。多少なりとも、からだは「不快」になるだろう。その「不快さ」は体験者の万分の一に過ぎなくても、その人に同調しその人を理解する手段に成り得るかも知れない。
異なった経験をした人を理解することは難しいが、からだを以って想像することで、少しでも相手の実情に近づけるのではと考えている。
あの日もし朝一番に大使館に行っていたら、霞が関や六本木であの事件に出くわさなかったとは言えない。運が良かったのだろうか。しかし事件に遇ってしまった人は、運が悪かったでは済まされないほどの体験をしてしまった。わずか電車1本の差が、一生を変えるほどに。
運よくそれを通過できた人は、まともにそれを受けた人の重みを想像することしかできない。言い方を変えれば、想像することはできる。想像することは、単にアタマの中の出来事ではなく、実際にからだに影響がある。多少なりとも、からだは「不快」になるだろう。その「不快さ」は体験者の万分の一に過ぎなくても、その人に同調しその人を理解する手段に成り得るかも知れない。
異なった経験をした人を理解することは難しいが、からだを以って想像することで、少しでも相手の実情に近づけるのではと考えている。