私たちが「恋人よ」を聴くときには、悲しみの中にも「美」を観るのだが、本人(歌の中の主人公)にとってこの歌は、悲しみだけなのかも知れない。五輪真弓が真直ぐに立ち、その口元を引き締めた表情を観るとそう思うのだ。 前奏は、彼女の置かれた境遇と心中を現している。刻まれるリズムは、「時」そのものであり、呆然とする彼女に別れの現実を突きつけ、対処を迫る。一方ストリングスは心の様相であり、「時」の間を縫うように流れ、消えた恋人をさがし求める。
恋人と居るときに「枯葉は散らない」。恋人と居るときには、時間が止まるからだ。「枯れ葉散る」という冒頭の一行は、既に愛が終わったことを示している。恋人と別れることは、「時」の中から「時」の外に出ることだ。そこではじめて「時」が流れるものであり、「枯葉が散る」ことを知ったのである。
「雨に壊れたベンチには 愛をささやく 歌もない」・・・「愛をささやく 人もいない」のではなく、「歌もない」なのだ。何故「人」ではなく、「歌」なのか。この恋人たちは、単なる言葉のやり取りをしていたのではなくて、歌を交わして(唄い合って)いたのだ。歌は物語である。物語が終われば、歌はない。たとえ人が残ったとしても、歌がなければ仕様がない。歌は二人の存在そのものだったのだ。
恋人と別れた彼女は、初めて無常を知る。枯葉も夕暮れも、壊れたベンチも皆、そこに立ち止まることなく、変化し続けていくことを知る。 そしてマラソンランナーまでもが、全てを忘れ無常に生きろと「止まる私を誘っている」。
2番のサビで「恋人よ さようなら」と言ったのは決別の意ではなく、無常によって彼が再び戻ってくることを信じたのだ。彼女の心にわずかな静寂があったとすれば、この一瞬である。しかしめぐってくるのは季節だけ・・・「あの日の二人」は再び帰っては来ない・・・流れ星を前にしても、そこには決して叶わない「無情の夢」があるだけだ。
最後のサビ「恋人よ そばにいて」の歌詞は1番のサビと同じだが、意味合いは大きく異なる。1番のそれは、突然の別れに動揺し、自分を制御できずに現れた感情。最後のそれは、2番のサビで「恋人よ さようなら」と一度「無常」を悟った後に、再び現れた感情である。それがいかに激しい慟哭であろうと、一度平坦になった処から湧き上がるものを抑えることはできない。