気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

沖縄で感じたこと、考えたこと

2014-01-09 17:09:58 | 

 沖縄は肌に合う。18~20歳まで留学した「厦門(中国・福建省)」と気候が似ているからかも知れない。今回の旅では友人(先輩・師でもある)とその娘に会い、久高島でゆっくりと過ごした。浜辺で彼の三線を聴いた。波の音と三線の音がぶつからないのいは、互いに自己を主張していないからだろう。彼の声は、先人たちが残してきた伝統を継承することだけを目指し、ただ垂直に天に向かって伸びていく。その昔、祖神アマミキヨが降臨した場所として伝えられる久高島で、奉納するに相応しいのは彼の人柄であった。

 知念から名護まで、路線バスを乗り継いで行った。途中下車して登った「伊波城跡」は、ただ風が吹き抜ける広場であったが、左右(東西)に海を見渡すことのできる気持ちの良いところだった。

 ところでバスが名護市内を走っている時に、停留所でないところで突然止まった。運転手は前の扉を開けて、稲嶺市長の選挙支援をしている人たちに挨拶をしたのである。その行為を不快だとは思わなかったのは、恐らくそれが、運転手の我欲に依るものではなく、もっと大きな「想い」に依るものだと感じたからだ。

 太極拳には「一動全動」という言葉があり、身体の中で一箇所が動けば、必ず他の全ての箇所が動くという意味である。太極拳は手や足をバラバラに動かしているのではなく、元々一つの繋がりのある身体を、繋がりをもって動かすのである。「沖縄の海」を身体に例えて考えれば、辺野古に基地を作るということは、その箇所が自由に動かせなくなることになり、それは単に辺野古(一箇所)だけの問題ではなく、周りの海(他の全ての箇所)にも影響があるのである(全体性が失われる)。

 「動」というのは、必ずしも前後左右上下に、眼に見える形で動くということではなく、「意識する」ことが「動」である。太極拳を深くやっている人ならば、全身に意識を配ること、すべての方向に意識を向けることの大事さはわかるだろう。「ヤマトンチュウ」が「沖繩」を身体の一部であると意識できたとき、基地問題がようやく動き出すのかも知れない。しかし身体感覚が鈍っていれば、それもわからないのだが・・・。

 友人が船着場で別れ際に言った「沖縄の海が海でなくなったら、もう沖縄ではないからね」という言葉を身体で考えている。

 


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