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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「治りたい」と「治したい」

2014-04-04 17:02:58 | 健康

 自分のカラダを「整えたい」と思うのは「本能」である。カラダに異常があったり、病気になった時に「治りたい」と思うのも「本能」である。しかしこの「整えたい」と「治りたい」は同じではない。

 「整えたい」は自分が主だが、「治りたい」は受身である。「治りたい」が悪いわけではなく、「治りたい」の中心に「整えたい」があるべきだ。「整えたい」は自覚するしないにかかわらず、常にあるべき欲求である。「整えたい」欲求があれば、身心の小さな異常に気が付き、自分でそれを整えることもできる。たとえ自分の力だけでは治せない場合でも、「整えたい」欲求を自覚しているなら、「治りたい」ではなく、「治したい」となる。自分に医療的・整体的な技術が無くても、精神的には主体的に関わることができるのだ。

 「整えたい」欲求が分からない人は、寝ている間にカラダが何をしてくれているのかを考えてみればいい。ツライ時に猫背になるのも、硬くなった鳩尾(みぞおち)を弛める意味があるのである。

 仕事や趣味を自主的に生きている人でも、カラダのことになると医者に全てを預けてしまうのはどういうわけだろう。カラダに対してキチント向き合い、欲求を感じながら生きるという姿勢が、主体的に関わることになる。


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カラダの自立

2014-02-28 14:25:53 | 健康

 「カラダの歪みを整えること」と、「カラダの使い方を良くすること」と、どちらが大事かと問われれば、後者だと答える。何故ならいくら「カラダの歪みを整え」ても、その使い方が悪ければ再び歪むが、「カラダの使い方を良く」すれば、歪みづらくなるからだ。 

 この両者は、相反するものではない。 「カラダの使い方を良くする」ための、途中に「カラダの歪みを整えること」がある。「カラダの歪みを整えること」は最終目的ではなく、手段である。

 多くの人は、一時「カラダの歪みを整える」ことで満足し、その先には目が向かない。確かに程度の重い歪みを治すことは、専門家の方が上手いかも知れないが、多少の歪みを整えたり、歪みづらいカラダを作ることは、自分でもできる。と言うより、自分でしかそういうカラダは作ることができないのだ。

 自分で自分のカラダを作るということは、カラダの感受性を磨くことである。感受性のレベルが上がると、カラダの使い方が悪くて余分な力が入った時に、すぐに察知し、弛めるなどの対処ができる。精神的な緊張も、すぐに察知できるから、それを弛められる。このように小さな異常に、直ぐに反応できるようになるのだ。

 普段、自分の感受性と向き合っていない人は、カラダの発する信号である緊張や弛緩が分からないから、相当悪くなってからようやくカラダが悪くなっていることに気がつく。

 感受性を尊重した生活を続けていくと、緊張や弛緩は自分を守り・活かすための自己調整だということがわかり、感受性は信じるに値するものだと思えるようになる。 

 言うまでもなく、カラダは自分が「使うもの(動かすもの)」であり、他者がサブ的に補助することはあっても、主体は常に自分にある。しかしながら、いざ治療を受けるという時には、医者や手技療法者に全てを任せてしまっている。

 感受性という規準を自分の中に持つことができれば、治療家に対しても一方的に受身にならずに済むだろう。何よりも、肉体的に「自立」していくことは、自由で、嬉しいことなのである。


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「自分らしい」カラダ

2014-02-21 20:28:42 | 健康

 「自分らしい」とは、どういうことか?

 「自分らしい」と思えるのは、おそらく無理をしていない状態であろう。それは素の欲求の範囲内、或いは実力の範囲内で、話したり、行動したりしている状態である。

 身体の面から「自分らしさ」を考えてみると、余分な緊張や弛緩の無い状態、リラックスしていても、だらけていない状態などは「自分らしい」と言えるだろう。しかしながら、こういう理想の状態を常に保持することは不可能だ。人は社会生活をしなければならず、周りの環境によって緊張が高まったり、反対に力が抜けすぎたりすることは避けられないからである。

 「自分らしくない」ときには、必ず緊張が伴う。見えるところでは、表情が強ばる、声が震える、肩が上がる、アゴが上がる・・・見えないところでは、水落が硬くなる、足首が緊張する・・・こういう「自分らしくない」ときに、想ったり、考えたりしたことが「素晴らしい」内容である可能性は少ない。

 また、「自分らしく」いることは、自分だけではなく、他者に対しても影響をもたらす。ある人の緊張や不自然さは、周りの人にも伝わるものだ。周囲の人は、その人がその人らしいことを望んでいるのであり、その人が素養以上を演じても、不自然さを感じることはあっても、嬉しく思うことはないのだ。

 以上のような理由から「自分らしさ」を保つことは大事なことである。「自分らしさ」が崩れる場合でも、できるだけ崩れを少なくする、或いは崩れても、できるだけ早く理想の状態に戻るようにする。

 その具体的な手段として、「立つ」練習をしている。それはただ立つのではなく、身体の中の凡ゆる場処の力を丁寧に抜き、重心を落とし、丹田の充実を作る。身体の歪みが甚だしい場合には、先に修正してから行なう。

  

 * 3月から、このような練習をする会を始めます。期日が決まり次第、「気気の会」ホームページにて発表します。


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