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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

非日常には 非日常で

2024-07-13 06:52:34 | 透明を観る
 「透明を観る(身心調整法)」は日常に使うことができますが、大変な状況(非日常)に対しても使うことができます。むしろそういうときの方が、「透明を観る」の存在する意味がよくわかります。
「透明を観る」は過去の傷(トラウマのようなもの)を緩和することもできますが、同様のことが起きたときに、それを乗り越える手段になります。
 また「透明を観る」はその使い場所として、将来起こり得るあまり良くない状況(たとえば身近な人の死や自然災害など)も想定しています。その時になってできるだけオロオロしないように、ひとつの心構え(体構え)を作ります。非日常の状況に対しては、非日常の意識を使う方法「透明を観る」で対処することもできます。



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一度、感情・愛情をぬく

2024-07-06 06:39:38 | 透明を観る

 私たちの日常はいつも感情や愛情などの「情」があふれています。何かをするときに情を込めたり、人の情を求めたり。仕事上の付き合いや公共の場所でも、まったく情がないわけではありません。
 健康法としての「透明」のイメージは、「情」をあえて使わずに「淡淡」とやります。「淡淡」といっても、それは冷血人間のような冷たさを目指すのではなく、情を一度ゼロに戻す(リセットする)ことです。そうすれば今度は感情がそのゼロから生じてきます。それは普段の感情と比べて、とても自分らしく、きれいな感情です。普段のように感情があふれている中にいると、知らず知らずのうちに感情に支配されてしまうこともあります。そうなるとたとえば、好き嫌いのよう感情のみで物事を判断してしまう。このようなときの感情は、だいたい偏っています。偏った状態(基準)から出てくる感情は正しくはなく、自分らしくもありません。だからまず、ゼロに戻して(リセットして)、そこから新たに自分らしい感情を出して行く。ゼロに戻すために「透明を観る」のです。

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「つながっている世界」の経験

2024-06-29 07:31:59 | 透明を観る
 自死する人は多い。年間2万人だとしても、死にたい人を含めれば相当多い。もし仮に私の周りに自死したい人がいたら、私はその人に何を語りかけることができるだろう。
 安易に「この先良いことあるよ」「人生は塞翁が馬だから」などと励ましたり、「希望を持った方が良い」などと無責任なことは言えません。ただ「透明を観る(後述)」ことをすすめることしかできないだろうなと思っています。
 
 死にたいと思っているのは、ココロを含めた意識です。それは意識の中の半分であり、あとは「すべてがひとつにつながった世界」です。と言っても物理的に意識の中が二つに分かれているのではありません。また私たちが見ている世界と別に他の世界が存在するのでもなく、同じ世界を観ながら、違う見方(分節の仕方)をすることで、違って観えるのです。普段のココロや意識は言葉で考えるので相対的になり、個々のモノがそれぞれ分かれます(バラバラな世界)。対して、すべてをつなげて観ることもできます(ひとつにつながった世界)。「透明を観る」というのはそういう観方です。
 この方法は死にたい人だけではなく、悩んでいる人、自分らしく生きられない人・・・相対的なモノの見方の強い人には意味があると思っています。
 
 ココロが折れても半分です。ココロは半分、後の半分は「つながっている世界」。と言っても「つながっている世界」だけで生きた方が良いのではありません。「つながっている世界」は、それを経験することで身心が変わります。感受性が変わり、モノの考え方が変わるのです。「死にたい」と思っている気持ちが、「そうでもないな」となる可能性は十分あるのです。

*透明を観る」とはココロの中で三つの言葉を唱えること。「わたし 透明」「あなた 透明」「すべて透明」。

*以前書いた同様の記事

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「無」と「有」を両方イメージする

2024-06-21 06:59:29 | 透明を観る
 私がイメージの練習のときに使う「透明」という言葉は、「有」と「無」の両方を持ち合わせている特別な言葉です。「透明」には色(物質的な手応え)がないから、「無」といえます。しかし「透明」という名前とそれにともなう意味(概念)があるから「有」ということもできます。要するに、「モノは無いけれども透明が有る」のです。
 普段はモノが無ければ(不可視・不可触であれば)「無い」というだけで、「透明がある」とは考えません。しかし私は、積極的に「透明がある」と考える。「有」と「無」の両方を意識するのです。そうすると普段のカラダとは違って、「有」と「無」の両方を意識したカラダになるのです。

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「とっさ」に対応するために

2024-06-14 06:54:03 | 透明を観る
 先日電車からホームへ降りたとき、階段の下にクワガタのメスが仰向けになっていました。それを認識した時にはすでに階段を登り始めていたので、そのまま引き返すことなくすすみました。改札を出てからもそのことが気になりました。なぜすぐに拾い上げ、安全な場所へ逃してあげることができなかったのか。たとえ後ろから他の乗客たちが来ていても、その流れに逆行してクワガタの元へ行くことはできたはずです。
「余裕(のようなもの)がなかった。私は次の目的地へ行くことだけを考えていたのです。「余裕」とは単にリラックスしていることではなく、突然現れる予想外の状況にも、瞬時に対応できる準備ができていることです。身心がニュートラルな状態にあることです。
 人が「目先のこと」を考えるのは当然です。しかしそのことだけしか考えないのならば、それは「執着」のようなものです。執着によって身動きは固くなります。では「余裕」のようなものは、どうやって持つことができるのか。それは、起こり得ることを幾つも想定することではありません(それでも多少の余裕は持てますが)。ここからは私独自な方法ですが、普段(相対的な観方)と違う意識を持つこと。「透明」をイメージして、「双眼(モノを相対的に観ながら、同時に一つにつながっているように観ること)」を目指します。相対をいくら積み上げても限界がありますが、「透明」を意識の中に入れていけば、身心が変わり、対応力が高まります。
 もちろん人の行動には、本人の持っている性格や過去の経験なども関係するので、いつでもどんな状況に対しても、理想的な判断と行動ができるわけではありません。それでもわずかでも、自分らしい言動ができるようになることは、何よりも(他者からの評価を得られるよりもずっと)、自分がうれしくなることだと思うのです。
 同日それからおよそ20分後に、別の場所で虫が仰向けになっていたので、それには対処できました。

 

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