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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

③「すべて 透明」の解説

2024-08-17 06:40:01 | 透明を観る
 今回は「透明を観る」の最後、③「すべて 透明」について解説します。
「すべて」というのは、万物のことです。一つもかけることなくすべてということ。そこには「わたし(自分)」も含まれます。「すべて 透明」ということは、「すべてがつながる(つながってしまう)」ということです(透明には輪郭がありませんから)。「すべてがつながる」ということは、「一つ」になるということです。
 こうして「一つ」という意識(感覚)を持つと、身心が変わります。「透明」はこの「一つ」という意識を持つための手段なのです。

「地球は一つ」だとか「人類は一つ」というような言葉を耳にしたことがあります。しかしそう思う(考える)のは、なかなか難しいことです。それが「透明を観る」をすると、ごく自然に「一つ」だと思えてくるのです(完璧ではありませんが)。

 普段私たちは、物ものが分かれている世界に住んでいます。山があり川があり、電車が通り、花が咲く、そういう世界に住んでいます。こういう世界に生きながら、「一つにつながった(非日常の)世界を、(日常に)取り込むことは、大変意義のあることです。それは「一つ」の世界をユートピアと崇めたり、そこへ逃避することではありません。「一つ」の世界を想像すれば、(身心が整った)本来の自分を取り戻すことができるし、新たに現実(分かれている世界)で生きていく力を持てるからです。

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②「あなた 透明」の解説

2024-08-10 06:48:46 | 透明を観る
 前回に引き続き、今回は ②「あなた 透明」について解説します。
「あなた」というのは、自分以外のどなたかのことです。特定の人でも不特定の人でも良いです。また一人でも多数でも良いです。とにかく誰かを「透明」だと考える。そうすると、自分はすでに「透明」になっているので、この時点で少なくてももう一人も「透明」になったわけです。透明は輪郭を持たないから、ふたりはつながってしまいます(漫画の透明人間は輪郭がありますが、本当の透明にはありません)。「つながる」といっても、物理的につながるわけではありません。透明だと仮定すれば、分けることはできず、そうならざるを得ないということです。
 
 つながった二人の関係は、日常のものとは大きく異なります。日常で「つながる」といえば、親しい人や同志、趣味を同じくする人との間で、初めて「つながり」ます。ここではそのような感情や利害などによってつながるのではなく、淡淡とつながっているだけです。しかし感情を抜いた「淡淡」だからこそ、純粋に(感情や利害などをこえて)つながることができるのです。たとえ日常ではとてもつながりたくはないと思う人でも、ここでは感情を抜いているので、つながることに抵抗がなくなってきます。
 ただ「つながっている」という関係を想像する(知る)だけで、それは実現します。それによって身心が変わります。

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「透明を観る」・・①「わたし 透明」

2024-08-03 07:05:13 | 透明を観る
「透明を観る」では、三つのイメージをします(ココロの中で唱えます)。
  
  ①「わたし 透明」
  ②「あなた 透明」
  ③「すべて 透明」

 今回は①「わたし 透明」について解説します。
 ここでいう「わたし」には、肉体と意識(精神)のすべてが含まれます。意識の中には現在考えているものだけでなく、過去の経験や記憶、未来の計画や夢なども含まれます。そのような「わたし(自分)」を透明にするとはどういうことか。
 いうまでもなく私たちの「肉体」には色がついています。肌には肌の色、髪には髪の色。それを透明だと考えるのです(最初は透明人間だと考えると、イメージしやすいです)。普段私たちはいつでも何らかの意識をもっています。それを「透明」だとイメージする。「意識が透明」だというのは、たとえれば様々な意識の上に「透明」という無色の色を塗っていく感じです。気功ではその練功中に雑念を排除すると言いますが、それを上の例に当てはめれば、「色を抜く」感じです。ここでは「色を抜く」のではなくて、「透明(無色)を塗る」のです。「わたし 透明」とイメージするのはそのためです。
 もちろんそのようにイメージしようとしても、すぐにはできないかもしれません。それでもカラダは変わります。変化の程度に個人差がありますが、「透明を観る」ことによって変わります。このカラダの変化によって、今度は意識もまた普段のものと変わってきます。このココロとカラダの変化こそ、「透明を観る」意味(目的)なのです。

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力を抜くために

2024-07-27 07:12:36 | 透明を観る
 太極拳教室ではときどき「透明を観る(身心を整える方法)」をすることがあります。その後に太極拳をすると、何人かの人は、ずいぶんと力が抜けてていることを自覚します。特に腕の力の抜け方に驚きます。
 体育の授業やスポーツの準備運動で、よく指導者が「手首・足首の力を抜いて・・・」などと言うことがあります。もちろん多少は力が抜けますが、ある程度までです。意識して抜ける程度には限界があるからです。呼吸法も力を抜く方法のひとつですが、そこに時間や回数などの意識をし過ぎればやはり限界があります。

「透明を観る」では、意識(イメージ)を使います。「すべてがつながり、ひとつになった」イメージをすることで、結果的に力が抜けます。人は普段、常に何かしらの意識をもっています。それは仕事や趣味など何かに集中しているときだけでなく、ぼんやりしているときにも。そしてその意識の有り様が、逐一カラダに反映しています(身心一如)。ですからカラダの諸々の問題(疾病だけでなく違和感やバランスなど)をカラダだけの問題と考えるのではなくて、意識も含めたものとして捉える必要があるのです。反対に意識の問題(重たい精神的なものだけでなく、軽い気分のようなもの)に対しても、カラダからアプローチすることもできます。

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「つながり」はカラダを変える

2024-07-20 10:28:45 | 透明を観る
 人は常に他者を意識しています。人よりも上にいたいと思ったり、人より下にいることを恥じたりと、比較・競争的な意識があります。一方で人と同じであることにも喜びを感じます。趣味が同じだったり、生活水準が同じだったり。そこには技術や何かのレベルが同じで安心する面もありますが、誰かと「つながっている」という意識が喜びを感じさせます。
 私が行なっている「透明を観る」は、人とつながるだけではなく、他の物モノともつながることを目指します。対象は万物ですから、好きなものも嫌いなものもあります。それをいちいち感情をもって接していくことはできないので、「淡淡」とやります。その方法は、積極的につながろうするのではなくて、反対に「私」や「あなた」という個を消すことによってつながります。もちろんこれは物質的ではなく、意識的にです。そうして「周りとつながった」意識になると、今度は物質的なカラダが変わってきます。そのカラダは、そう思っていないとき(普段)とは違うカラダなのです。

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