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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

私は私のことを知らない

2021-12-31 22:47:56 | 「立つ」健康法
 自分が嫌いだという人や、理想の人に変わりたいと思っている人は結構いるかも知れない。そういう人は、自分が何もしなければ変わらないと思い込んでいるのかも知れない。自分の性格はこうで、こういう考え方をして、こういうからだであると言葉で決めつけてしまうと、実際の自分がその言葉の範囲から出られなくなってしまう。私は多くの欠点を持っているが、だからと言って嫌いにはならないし、性格その他を変えようとも思わない(もちろん人に迷惑をかけることはできるだけ改めたいとは思うが)。
 
 私は私でありながら、私のことをすべて知っているわけではない。自分が今何を考えているのか、書き出してみるとアタマの中にはなかったことが、急に飛び出すことがある。教室で指導しているときに、新しいことを閃いて自分が驚くことがよくある。「私」は一定ではなく、変化し続けているからである。そういう捉えどころのない自分と付き合っていくことは、興味深いことである。何を話すかわかっていたら、そんな自分に興味は持てないだろう。

 それでも自分を変えたいのであれば、性格(ココロ)ではなく、からだの方から着手したらよいと思う。自分らしいからだをつくれば、自分らしいココロになる(身心一如)。自分らしいからだをつくるには、筋トレやランニングをするのではなく、自分のからだとゆっくりと丁寧に向き合うことである。私は毎日、「キチンと立つ」練習を通して、自分のからだを感じている。自分のからだを知れば、それ以上を求めなくなるものだ。

 今年も2時間を切り、何となくパソコンの前に座ったら、言葉が出てきたので書き留めました。お読みいただき、ありがとうございました。
 

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臨済の自信

2021-11-25 11:10:46 | 「立つ」健康法
臨済は弟子に対して自分を信じることの大事さを説き、「信不及(自分を信じることができない)」ことが問題なのだと言った(以下大まかな意訳)。

如今學者不得,病在甚處。病在不自信處。 爾若自信不及,即便忙忙地(今時の学問をしているものが、ものにならないのは、どういうわけか。自信を持てないところに問題がある。自分を信じることができないから、落ち着きがなくあたふたするのだ)。
人信不及,. 便乃認名認句,向文字中,求意度仏法(自分を信じることができないから、文字の中に仏を求めてしまうのだ)。
祇為你信不及、念念馳求、捨頭覚頭、自不能歇(自分を信じることができないから、求めまわってしまうのだ)。

 普段私たちが聞いたり使ったりする「自信」という言葉の裏には、必ずそれにふさわしい「能力」が前提としてある。監督や先生あるいは親が、選手や生徒、子供に「自信を持て」というのは「普段のお前の実力を信じて行えば、良いパフォーマンスができるはずだ」という意味であり、実力もないのにただハッタリで「自信のあるフリをしろ」ということではない。実力の裏付けがあっての話なのである。だから自信がないのは練習や努力が足りないからだと考える。
 しかし臨済は、たとえ禅的理解が低かろうと、現状の自らをそのまま信じればよいと言う。何よりも先に自分を信じること=自信が何よりも大事なことだと考えているからである。自分と言っても、それは自分という小さな個体だけではなくて、周りとつながった自分である。弟子に対して能力の差による差別した見方をしないように求めたのは、差別しなければ、物(人)と物(人)の間の差(距離)がなくなり、ひとつに観えるからだ。そういう周り(或いは仏)と変わらない在り方をしている自分を信じるというのが臨済の自信である。

 私は「キチンと立つ」練習のときに、石垣のイメージをする。石垣の中の一つの石が私で、周りの石石とつながって石垣を形成している、と。そうすると立ち方が変わる。意識(イメージ)にはからだを変える力がある。周りとつながっている、仏と変わらないという意識(イメージ)は、単に弟子を禅的な悟りに導く方便でなく、人としての身心の在り様を変えるものである。

 

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ものをひとつに観る「快」は、幼い頃の記憶

2021-10-01 08:10:54 | 「立つ」健康法
 乳幼児は身の回りの人や世の中をどのように見ているのだろうか。もしかしたらそれは禅のものの見方(世界はすべてつながっている)と近いのではないだろうか。
 乳幼児は生後、授乳や触れ合いを通して、すぐに母親と父親の違いが分かるようになる。しかし乳幼児はそういう違いを認識しても、言葉を持たないから、名前や意味を使ってその違いを認識することはできない。それは我われ大人のように明確にものを分ける相対的な見方とは違って、区別をしてもその程度は浅く、人と人、物と物を完全に切り離すように分けてはいない。乳幼児は母親・父親の違いを感じながらも、根本ではつながっているものとして見ているのだ。「つながっている」といっても、必ずしもそれは物理的につながっていなくてもいい。概念で分けなければ、つながっているのである。人以外の物や景色も然り、無機質なテーブルや畳、遠くに見える山やサラサラ流れる川もつながっているのである。乳幼児は、両親をはじめ親しいものとそうでないもの、生理的に気持ちのよいものとそうでないものの区別をしても、「完全に別物」という認識はもたない。大元ではすべてが「つながっている」のである。矛盾した言い方に聞こえるかも知れないが、分かれていながらつながっているのである。乳幼児は自然にそのような見方ができるが、言葉を一旦覚えた大人がこういう見方をするのは、至難の技である。
 
 私が「立つ」練習で、ものを一つに観ることをめざすのは、幼い頃にそういう見方をもっていたからだ。乳幼児のときのその感覚を今思い出すことはできないが、言葉の世界にはない異質の「快」だったことには違いない。特定の愛情に包まれるような感じではなく、淡々とすべてがつながっている世界にある「快」。その「快」は言葉の獲得と引き換えに消滅したが、それを無条件に信じられるのは、今でも微かに残る感覚がそれを欲しているからだろう。






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変わっている人間がやっている健康法

2021-09-03 12:57:45 | 「立つ」健康法
 小学生の頃から友達に「変わっているね」と言われることがあり、それは大人になってからも変わらない。よく言えば個性的だが、人とは考え方の違う奴ということである。そういう少数派の人間が「面白い・楽しい」と思うことが、多くの人の同意を得られないのは当然である。だからと言って、多くの人に合わせようとして、好きでもないことをする気にはならない。
 私は現在、「キチンと立つ」ことで身心を整える方法を指導している。誰でも知っているような健康法と比べて地味だし、紹介したところで面白そうもないと思われるに違いない。しかしこれは私が今まで経験してきたスポーツや健康法と言われるものの中で、からだを整えるものとしては一番よいものである。学生時代にやっていた野球、ランニングやその他の競技スポーツは言うに及ばず、30年続けている太極拳と比べても「キチンと立つ」方がいい。太極拳はからだの使い方を身につけるにはよいが、動作が複雑で難しいから脳が完全に休まらない(競技用太極拳や実践の太極拳では、脳の休まりなど求めていないから問題外)。からだだけを動かしていれば健康によいという考え方は、「身心一如」から見れば、健康法とは呼べない。
 「地味で面白そうもない」と書いたが、実際やってみると、そんなことが気にならないほどからだが変わる。人によってはドラマチックなほどに。「キチンと立つ」ためには、身体のバランスを整えればよいのではなく、意識が大きく関係する。意識は物事の認識の仕方である。私たちが日常持っている「比較分別」という意識から、「比較分別しない」という意識に変えるのである。もちろん容易には変わらないが、その方向へいくことでグーンとからだが変わってくるのである。

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理想の立ち方を身につける会 2021年 8月

2021-08-06 16:02:11 | 「立つ」健康法
 うつ伏せで呼吸をしていると、お腹だけでなく尻や腿まで動いているのがわかる。丁寧に感じていくと、呼吸に合わせて全身が動いていることがわかる。からだはつながっているのだ。

「理想の立ち方を身につける会」を8月8日(日曜日)に開きます。関心のある方は是非ご参加ください。詳細はホームページをご覧ください。

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