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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

自己流 気功「意守」の方法

2022-10-28 13:00:42 | 「立つ」健康法
 私の行っている「立つ」健康法と気功は、手段は異なりますが、からだが整うという点では同じなので、今日は少し自己流の気功を紹介します。

 ときどき教室で「意守(いしゅ)」の練習をしています。「意守」というのは気功の技術で、からだの特定の部位を意識(軽く集中)することで、気の流れをよくするというものです。「気の流れ」といっても、実感としてはわかりづらく、わかるのは意守をし終えた後のからだの感覚が変わること。全身がまとまる感じがします。頭から足までの各処が同じ方を向いているというか、全身が一つになって動くことのできる準備ができている感じです。
 
 実践では最初に丹田(臍の下)を意守します。30秒〜1分くらい(長くやりすぎると、集中が切れて他のことを考えだします)。次に足の裏の「湧泉(ゆうせん・土踏まずの前の方)」。このとき丹田と湧泉の2箇所を同時に意守すると、結果的に2点がつながり「線」になります(結果的にと言ったのは、先に「線」を想像しない方がいいからです)。丹田と左右の足の湧泉がすべてつながると、丹田を頂点にした二等辺三角形ができます。次に腰にある「命門(めいもん・臍の後ろあたり)」。命門と丹田を同時に意守すると、前後につながりを感じます。それを「線」として感じてもいいし、丹田から腰までの一つのボールのように感じることもできます。命門と湧泉を同時に意守すると、それもまた「線」としてつながります。ここまでの4点(丹田・湧泉(2つ)・命門)を同時に意守すると、それぞれが「線」で結ばれて、一つの立体的な形ができあがります。意守の場処が2点だと「線」になり、3点だと面になり、4点以上だと立体になります。この見えない形を結ぶ「線」は、骨や筋肉ではなく、神経でもありません。「気」というしかありません。「立って」いるときに、その気の形を想像すると、下半身だけにそれを感じます。ここまでできたら、今度は上半身に向かいます。
 
*上記の方法は、私が自分の体感をもとに作ったものなので、正式な方法ではありません。練習をされるときには、ご自分の感覚を基準にしてされるのがよいかと思います。

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「悩み」の本当の大きさ

2022-10-20 12:19:24 | 「立つ」健康法
 「悩み」というのは、本当にあるのでしょうか。もしかしたら「有る」と思い込んでいるだけなのかもしれない。もちろん本人にとって深刻な問題なのだから、それは「有る」としか言いようがない。しかしそれは、「何か」ではあるが、「悩み」かどうかは分からない。
 
 「キチンと立つ」練習をすると、たとえその前に「悩み」のようなものがあったとしても、気にならなくなる。身心が整うことで、現状が肯定されるからです。そのときに「悩み」がなくなったのかといえば、そうではなく、探せば「有る」のです。「悩み」と呼んでいたものの形は「有る」けれど、(質が変わったので)気にならなくなる。

 自分だけではどう仕様もないような大変な「悩み」であれば、カウンセラーのような専門家や周りの人の力を借りるのもよいと思います。しかし私たちが「悩み」だと思っていることの大半は日常の些細なことです。その「悩み」を大きくするのも小さくするのも自分次第です。私の場合は「悩み」そのものには直接触れず、「キチンと立つ」ことをします。まず自分をニュートラルな状態にすることで、「悩み」を気にならなくします(悩み本来の大きさを知ることができます。過敏のときには大きく感じます)。後はそのまま放っておいてもいいし、必要であれば解決の方法を考えてもいい。

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目的意識を消す力

2022-10-14 12:39:33 | 「立つ」健康法
  野口整体を勉強していた頃、「活元運動」や「楡気法」は、病気をなおすためにするのではないという話がありました。それは目的が不純だからではなく、「〜の為」という目的があると、上手くできないからです。「〜の為」という目的意識は、強く自分のココロを支配して、「楡気法」などを技術的に全うできなくなります。もちろん、「活元運動」や「愉気法」の実践時に、即モードを変える(目的意識を消す)ことができれば良いのですが、なかなか難しいのでそのように言ったのではないかと思っています。

 「キチンと立つ」練習は、たとえ練習の前後にそのような目的意識があったとしても、いったん練習を始めれば、最初に持っていた目的意識が自然に薄まったり、消えていきます。ですから無理に「目的を持ってはいけない」などと考える必要はありません。キチンと立ってみれば、実践そのものに、目的を「消す」力があることに気がつきます。

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モノは、分けられない

2022-09-30 06:35:58 | 「立つ」健康法
 モノを一つに見ようとする方法はいくつかあります。一つは足していく方法。たとえば「窓・天井・床は自分とつながっている」と考える。何となくできたら続けて外の建物や木々も自分とつながっていると考える。このように自分の周りに存在するモノを一つづつ足して行き、「一つに見る」方法です。それからもう一つ、「分けられない」と考える方法。人は言葉を使わなければ、自分を◯◯だと証明することができません。自分のことでさえキチンと説明できないのですから、周りのモノモノなど尚更説明することができません。この理屈が腑に落ちれば、「モノを分けることができない」と考えることは、さほど難しいことではありません。

 私たちは常識や習慣よって、見たものを疑うことなく直ぐに分けてしまいますが、そこでちょっと立ち止まり、「モノを分けることはできないんだ」と思えば、身心は変わります。非日常の意識になることで、非日常の身心が現れます。「非日常」と言っても、それはとても自然な気持ちのよい状態で、かえって日常が歪んでいることに気がつくのです。

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幼いときの記憶がモノを一つに見させる

2022-09-24 08:53:23 | 「立つ」健康法
 モノを相対的にではなく、一つに見たいと思うのは、幼いときの記憶と関係があるのではないかと思っています。幼いときには、大人ほどモノを分けて見ません。母親のことはわかっても、第三者の区別を正確につけることはできないし、触れるものや景色に対しても、たとえ違いがわかったとしても、それを誰が所有しているモノなのかまでは思慮が至りません。そのような見方を「拙い」「分別がない」などと否定的に捉えるのではなく、肯定的に考えることもできます。

 幼いときのそういうモノを明確に分けない「曖昧」な見方は、体感的に「よい」ものとして記憶されるのではないかと思います。それはその頃に周りからの愛情を受けていたからということだけでなく、自身のモノの見方そのものがよかったからです。モノを曖昧にすることは、敵もいなくなるし、出会うものすべてが自分のものだと思うことができます。そして何よりも自由な感じがあるのです。それがよい体験だったからこそ大人になっても、幼いときと同様にモノを曖昧(一つ)に見ようとすれば、身心が変わるのです。

 幼いときには自然にやっていた「モノを曖昧(一つ)に見る」ということも、大人になるにしたがって、できなくなります。それでもまったくできないわけではなく、方法はいくつもあります。私はたまたま「キチンと立つ」という方法で、それを実現しようとしています。幼いときに刻まれた記憶が、人よりも強く残っているからかも知れませんが。

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