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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

考え方のクセ

2021-06-13 06:58:03 | 「立つ」健康法
 何処かに行きたくないとき、本当に行きたくないのだろうか。誰かに会いたくないとき、本当に会いたくないのだろうか。生命の危険があるような所へ行くときには、行きたくないと思うのは普通だろう。性格的に合わない人とは会いたくないだろう。しかしもしかしたら、ただ習慣的に「行きたくない・会いたくない」と思っていることもあるかも知れない。少しイヤなことがあっただけで、それからずっとイヤなままでいて、行ってみたらそうでもなかったということはよくある。
 「行きたくない・会いたくない」と習慣的に、そう思ってしまっているのなら、変わる可能性がある。私は、人は物事の判断や選択を、性格ではなく「考え方のクセ」でしてしまうことが多いと思っている。その都度純粋にニュートラルな状態で判断・選択するのではなく、先入観で「そのことはイヤ」と決めつけている。もちろん全てのことに対して一々判断・選択していたら疲れてしまうだろう。しかし「考え方のクセ」で生きてしまうのはモッタイナイ。自分の生きる範囲を狭めてしまい、いいものに巡り会う機会が減ってしまう。そして何より自分らしく存在する時間が少なくなってしまう。
 「考え方のクセ」が出る前に「キチンと立つ」と、物の観え方が変わることがある。いつもなら「イヤだな」と思うところが「そうでもないな」となる。それだけでもずいぶん生きやすくなるのではなかろうか。

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ここ数日の腰痛

2021-06-05 09:19:10 | 「立つ」健康法
 6月1日に背中の右下を痛め、3日に腰痛になった。原因と経過は以下の通り。
 6月1日は鮎の解禁日であり、数週間前から仕掛けづくりをして意識もそこに合わせていた。例年と違う川で釣るという緊張と、当日思うような釣りができないということが重なって、背中右下を痛めた。
 翌2日は、教室に新しい人が参加したりして色々とゴタゴタがあり、アタマを使いすぎた。そして翌3日の朝から腰が痛み出した。

 私の腰痛は、ほとんど腰椎1番で、アタマを過剰に使ったことによるものだ。硬くなっているが、それを直接にゆるめることはしない。キチンと「立つ」だけでいい。それを日に何度か繰り返す。6月4日も同様に「立つ」だけ。夜には6割くらいは回復し、今日(6月5日)は7〜8割回復した感じがある。

 腰痛の原因をいくつか挙げたが、それらは本当の原因ではなく、きっかけに過ぎない。問題は自分自身にある。自分をキチンと整えておけば、予想外の問題が起きたとしても対応できたはずなのである。キチンと立つ回数を増やしたり、整った状態を維持することが必要だと反省している。

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静的な欲

2021-05-29 08:25:37 | 「立つ」健康法
 欲には本能的なもの、社会的なもの、趣味的なものなど色々ある。しかし欲は必ずしも動的なものであるとは限らない。ずっと「立つ」練習をしてきてわかったのは、静かな方向を求める欲があるということ。「立つ」という静的な状態の中で、身心は充実する。満たされると、それを自分が求めていたことに気がつく。
 何もしていない人は本当に何もしていないのだろうか。もしかしたら「何もしていない今の状態に満足し、それ以上の変化を求めていない」だけなのかも知れない。逆に意欲的に見える人でも、現状への不満が行動の契機になっているだけかも知れない。見た目の行動の量で、生きる質を判断することはできない。
 「静的な欲」は動的なもののように見た目に現れないからわかりづらいが、感受性を高めていくことでより良くわかるようになる。人には本来、動だけでなく静を求める気持ちがあるのだから。

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最高の状態は日持ちしない

2021-05-22 08:44:40 | 「立つ」健康法
 「立つ」練習をして身心の状態が良くなっても、それは長くは続かない。「立って」いるときは、普段と違う「ものを一つに観る」という意識になるから整ったわけで、意識が日常の相対的な見方に戻れば再びいつもの身心になるのは当然である。
 内山興正禅師の本?だったかに「悟りは日持ちしない」というようなことが書いてあった。悟りは身心を極めたところに稀に到達できる境地であるから、悟ったままの状態で普段の生活をおくることなどできるはずはない。
 「立つ」ことは悟りではないが、身心の絶妙なバランスの上に成り立つという点では共通している。最高の状態は「日持ちはしない」が、ある程度のよい状態は残る。また普段と違う身心の状態があることを知ることで、視野は拡がり、生きやすくなる。これだけでも意味のあることだと思っている。

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気の眼

2021-05-16 06:15:44 | 「立つ」健康法
 私たちは普段「色メガネ」で物事を見ている。偏った自分の観念・思い込みで見ている。「心眼」は肉眼ではなく心の眼で物の深い処を捉えるものだが、物を比較分別していることには違いがない。私は「立つ」練習のときに気の眼(気眼・きがん)を使っている。気眼は物を分けずに一つに観る眼。もちろん私のような凡人がそんなことを完全にできるものではない。しかし、それを目指すことで、多少なりとも身心が変化することを感じられるのである。
 だからと言って日常の「色メガネ」が悪いわけではない。誰でも全てを客観視することは不可能で、少なかれ「色メガネ」で見ているものだ。ただそれが過ぎると生きづらくなることもまた事実である。「気眼」を使うことで少しでも「色メガネ」の色を中和し、透明に近づけることができればと考えている。
 

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