goo blog サービス終了のお知らせ 

気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「絵」の中に入る

2010-12-24 14:27:21 | 中国

 1989年の12月、私は内蒙古にいた。内蒙古大学に留学するべく申請をしていたが、その年の6月に起こった天安門事件の影響か、先方からの許可がなかなか出なかった。私はシビレを切らし、直接大学側と交渉しようと日本を飛び立った。しかし中国の情勢も変わらず、コネも無く、交渉能力に乏しい私に勝ち目は無く、結局留学の許可は下りなかった。

 内蒙古に滞在した1ヶ月の間、日本人留学生のNさんに大変お世話になった。彼は内蒙古大学ではなく近くの大学に籍を置き、積極的に蒙古人と付き合い、自分の夢に向かっているような人だった。誠実さをユーモアで包んでいるような人柄のNさんは、いつも私のことを気にかけてくれて、食事に誘ってくれたり、蒙古人の友人を紹介してくれた。「蒙古を目指す人は、そこに骨を埋める覚悟が有る人が多い」と誰かが言っていたが、Nさんにはそういう気概があるように思えた。ただ「あこがれ」だけで蒙古に来てしまった私とは全然違うのである。

 内蒙古大学のある「フホホト」からバスで3時間程行くと、草原がある。

19

1989(写真をクリックすると大きくなります) 

 観光用のパオ(ゲル)

19893

 雪原の上にカメラを置いて撮った。この日は「マイナス20度くらいだから温かいよ」と宿の人が言った。

19895

 動くモノが何も無い。まるで「絵」の中に入ってしまったようだ。よーく観ると、遠くで羊が草を食すために頭を上下している(写真、中央より上の黒いモノが羊)。

19896

 日本を立つ日の朝、父が玄関で「(お前は)景色を観に行くんだな」と言った。この草原に立ったとき、「景色」を観ているというよりも、「景色」の中に入っているような錯覚をした。しかし帰って来てしまえば、やはり「景色を観てきたのだな」と思えるのだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「栄宝斎」の女性店員

2010-10-10 16:07:19 | 中国

064

 これは斉白石(セイ ハクセキ・清朝末期~中華人民共和国の画家の掛け軸で、もちろん複製である。北京の「栄宝斎(書道具等を扱う老舗)」で買い求めた。当時(1992年頃)北京に留学していた私は、友人と一緒にバスと地下鉄を乗り継ぎ、「和平門」を下りてこの「瑠璃廠にやってきた。

 私は名字が「白石」なので、中国で自己紹介するときには、「斉白石の白石です」と言うことにしている。彼の描いた昆虫やお玉じゃくしの絵が気に入っている。

 さて「栄宝斎」には斉白石の原画が置いてあると本に書いてあったので、その旨店員に訊ねてみた。その女性が「観たいのか」と言うから、「観たい!」と言った。「こちらへおいで」と言うから着いて行くと、別室に案内された(わざわざ部屋の鍵を開けてくれた)。そこには初めて観る斉白石の原画が幾つも飾ってあり、その墨の生々しさに感動した。

 彼女は我々のためだけに鍵を開けてくれた。我々がそれを味わっている間も、話しかけることもなく、静かに見守ってくれた。日本から来た若造のわがままを、受け容れてくれる大きな懐の有る中国の女性だった。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

23年前に行った「敦煌」・23年後に読んだ「敦煌」

2010-09-24 17:48:55 | 中国

055

 久しぶりに小説を読んだ。父の本棚に並んでいた「敦煌」の背表紙を見ながら、いつか読もうと思いつつ、いつも後回しにしていた。井上靖の作品「氷壁」、「蒼き狼」、「天平の甍」、「孔子」などに劣らず良い小説であった。私にとっての良い作品とは、読み終えた後に、からだを包み込むようなジーンとする感じがあるものである。

 さて、私は1987年に「敦煌」を訪れている。友と一緒に1ヶ月くらいかけて旅をしたのだが、その最初に目指したのが敦煌である。上海からウルムチ行きの特急に乗って、はじめは田園地帯を通っていた汽車も、蘭州を過ぎた頃から窓の外には沙漠が映るようになる。

053_2

 万里の長城は、北京の「八達嶺」が有名だが、西の最後には「嘉峪関」が在り、六千キロの壁が終わる。(写真左端)土で造ったボロボロの壁が、かろうじて嘉峪関に繋がっている。

054

 砂丘の上から眺めた「月牙泉」。ホータン産の玉の色に似ている。「何故水が砂に滲みこんでしまわないのか?」と訊いたら、「水が湧き続けているからだ」と言われた。遥か天山山脈の水が沙漠の下を流れてきて、ここに湧いているのだとすれば、水もまた長い旅をしている。

056

 もし小説「敦煌」を旅の前に読んでいたなら、「莫高窟・第17窟」に対してもっと深い想いを以って向き合うことができたはずだ・・・

 057_2

 その友とは長いこと会っていないが、元気でやっているはずだ。あんなに刺激的な旅を一緒にできる奴は、そうはいない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未知酒味与詩心

2010-09-17 13:19:48 | 中国

044_2

 碁石(昔中国で買ったもの)を探していたら、扇子が見つかった。スウェーデンの女性(4月のブログ・「素直」を書いてくれた方)に頂いたものだ。一文字一文字が丁寧に書かれていて、彼女の真剣さが、ココロを打つ。

 実は恥ずかしながら、今回この扇子を開いてみて、はじめてこれが李白の詩だということに気が付いた。もっとも教えられたとしても、二十歳の私には酒の味も、詩の真意もわからなかっただろう。

   静夜思     李白

 牀前看月光(明月光)

 疑是地上霜

 擧頭望山月(望名月)

 低頭思故郷

この詩の風景を、勝手に想像してみる

(眠れない夜 眠ることをあきらめて) ベッドに腰掛ける

(窓の外をふと見ると) 月明かりに照らされて  

地上はまるで霜のように真っ白だ

(それに促されるように)

月を眺めようとすれば 頭は挙がるが

遠い故郷を思えば 頭は(再び)垂れる

扇子の最後の一行は、

「無事に、よい旅を!」 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国・アモイの野球少年~24年前の彼らと私

2010-09-09 17:47:00 | 中国

047

 「棒、塁球練習法」。棒球とは野球のこと、塁球はソフトボールのことである。この本は中国人の友人に貰ったものだ。アモイ大学に留学していた私は、近くの中学校に野球を教えに行っていたのだが、彼はそこの中学生だった。ある日私の大学の宿舎まで遊びに来てくれて、そのときにくれたのだ。実はコレ、中学校の図書館の蔵書である。彼がどうやってコレを手に入れ、どうしてコレを私にくれるのか。図りかねたが、せっかくだから頂いた。

049

 出版は1953年。中華人民共和国が成立して間もないこの時期に、野球の本が出版されていたとは驚きである。当時の政府には社会主義を進めて行く中にも、野球やソフトボールなども普及させようとする余裕のようなものが有ったのかも知れない。

046

 一緒に野球をやっていた「アモイ双十中学校」の先生と中学生たち(灰色のジャンバーは私)。野球専用のグランドは無く、校庭で練習していたので、ピッチャーとバッターの間を陸上部が走ることもあった。道具も不足し、ボールは硬球と軟球が混じっていた。ボールが一つしか無い時には、ファールを打つとそのボールが戻ってくるまで皆で待っているという具合。

 忘れられない出来事がある。ある時、沖縄の宜野湾市役所の野球チームがアモイを訪れて、中国チームと交流試合を行なった。試合を観に行った私は、彼らに中国の野球事情(道具不足)などを話し、中学生たちへの道具の寄付をお願いすると、実に多くのグラブやミットなどを快く提供してくれたのだった。大人の男達のやさしさを感じた瞬間だった。

 写真の彼らも今では30代。元気でいるだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする