T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「生きる」を読み終えて!

2009-09-19 10:29:53 | 読書

生きぬいて知る幸せ

「生きる」は乙川優三郎の直木賞受賞作品(平成14年)で、同タイトルの作品について、解説者が「人が生きてゆく限り、不運や障害も続けて絶えることがない。その中を歩みを止めず立ち向かっていった人たちへの共感が生み出した作品で、時代が違うが、平成を合わせ鏡にして生き難い人の世を生き抜くことを真摯に問い続けた作品なので多数の方の感動を得たのだろう」と述べている。

長い年月、心に大きな傷を受けても必死に生き抜いた主人公、人間の根幹の生についての作品とはいえ、これだけ心を打たれた小説は久し振りだった。

小説は中篇3話から成っているが、いずれも、もう一人の主人公の女性の生き様にとても感動した。

                                  

生きる (藩主への追腹をしないことを起請し、貫いた武士の話)

石田又右衛門の亡父は、浪人からこの藩に仕官し、又右衛門も藩主に寵遇され今では500石の家柄となった。

江戸の藩主の容態が思わしくなく、恩ある藩主が身罷った時は追腹の覚悟をしていた。

そんな折に、梶谷筆頭家老が、真っ先に追腹を切るだろうと思われる幹部の小野寺郡蔵と又右衛門を呼出し、有能な家臣を失いたくないので追腹禁止令を出したい。ついては、いかなる場合も決して腹を切らぬ、このことを藩命だとは他言せぬとの起請誓紙を出してくれとのことだった。

まもなく藩主が逝去し、追腹をした者は家族までにも及ぶ禁止令が出た。

当時、深田次席家老を中心にした梶谷家老に対抗する強い勢力があり、禁止令を巡っての論争が高まって、忠義を突き詰めて殉死する者がいる一方で、追腹者を多く出して深田派の勢力を伸ばし私利を図ろうとする者もいて人間のさもしさ醜さが露になった。

藩主の亡骸に付いて帰った、又右衛門の娘婿の真鍋恵之助も殉死した。娘からは、以前から差し止めてくれと言っていたのにと「ちくしょう」と声にならない声で又右衛門は責められる。

深田派から、又右衛門はなぜ追腹を切らないのか、この恩知らずめと周囲から執拗に冷ややかな目で見られるようになり、投げ文、門扉への落書、やがては門前に魚の腸が、そして小石が飛んでくる。城への道では臭くて溜まらんとまで言われる。

真鍋家からは義絶の通告がきた。娘は気が変になってきたとの噂も聞こえてきた。

又右衛門は梶谷家老に息子五百次の烏帽子親の頼みや今の状況の打開を頼むため、家老宅へ出かけたが保身だけの家老から門前払いを受ける。

又右衛門は心に受ける傷に耐えかねて気力も落ち、老爺の風貌に変わっていく中、家老との誓紙の取交わしを話してなかった五百次が父の汚名を雪ごうと切腹した。妻の佐和の心の病も酷くなり山の温泉療養に出したが、一度見舞いに行った後間も無く死亡した。

又右衛門の悪名は二年経っても変わらず、また、先日会ったばかりの小野寺郡蔵が断食して果てたと聞いた。

ついに、又右衛門は恨み辛みを吐き出そうと梶谷家老に書状をしたためる。いざ綴り出すと、いずれも力を出せば克服できたはずのもので、なにか泣き言を並べているように思われるし、誹謗中傷も予想されたことで自信さえあれば翻弄されずに済んだのではないか、娘との関係は父としての過失であったし、息子のことも防げたはずだ。自分は何もせず嵐が去るのを待っていただけではなかったかと悔悟の答を出して、書状や隠居届を破り捨てる。そして、翌日から生き返ったように出仕する。

その後、深田家老の失脚、梶谷家老の復権、殉死禁止の幕命があり、又右衛門は62歳まで出仕した。

物事の正否は権力の意向とは別のものであるのに、自分を侮辱した者達は絶大な権力が決めたことには従順で自らの判断を放棄して、のうのうと生き長らえ、一途な者は死んでいったが、自分は少しは人の役に立ったかもしれないと改めて回想した。

そして、女中が妻から聞いた「何を幸せに思うかは人それぞれで、たとえ病気で寝たきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香を運んでくればもうそういう季節かと思う、起き上がりその花を見ることができたら、それだけでも病人は幸せです」との言葉を聞いて、自分が人間らしさを取り戻させる契機になったのも、12年間、自分を支えてくれていたのも妻だったことを認識した。

そんなある日、梶谷家老から品物に添えて詫び状が送られてきた。又右衛門は詫び状一つで忘れられるほど軽い歳月ではなかったと口をへの字に結ぶ。

そのとき、庭先に2つの人影を認めた。義絶した元気そうな娘と若侍に成長した孫の姿だ。又右衛門は震える唇を噛みしめ、これでもかと凛として二人を見つめながら、やがておろおろと泣き出した。

                                     

安穏河原 (武士の娘が娼妓に売られても気高く生きていく話)

双枝の父は羽生素平といい厳格で誠実で実直な郡奉行だったが、その場限りの農政改革に反対した意見書を出したが認められず、浪人になり江戸に出てきた。

母親が病気になり生活に困って身売りした双枝は女郎屋津ノ国でたえと名乗るようになった。

素平は口入屋で知った伊沢織之助に金を渡し、たえの様子を探らせる。

素平は、武士の誇りも自尊心も暮らしが立たなければ崩れていくものだという厳しさが考えられなかったし、娘を売ったことを後悔していると織之助に話しながら、娘のことを心配する親心は織之助も吃驚するほどの金を度々余分に渡し、内緒でたえに好きなものを食べさせてくれと言う。

双枝は父親と違い、娼妓になっても、幼い時に親子で安穏に河原で遊んだこと等の日々を胸に父の厳しい躾どおり気高く生きており、織之助が鰻でも食べるかと言うと「でも、おなか、いっぱい」と断る。それを聞くたびに、素平は厳しく躾け過ぎたと唇を噛む。

たえの六年の年季明けに残る借金は30両ほどだと織之助に聞き、素平は大きな賭けにでる。昔の藩の上屋敷で切腹し、その厚情として金をせしめる。

その金を持って、織之助が津ノ国に行くと、警動があったのか店は閉じられていてたえの行方は解からずじまいになった。

6年ほど経ったある日、織之助は団子屋の店先で四五歳の女の子がじっと焼ける団子を見つめているのを見つけ、買って差し出すと「おなか、いっぱい」の言葉が返ってきた。武家の生まれのかかさまから意地汚い真似をしてはいけないと教えられたとだと言う。

団子屋に聞くと、夜鷹の子で母親は一ヶ月前に死んだらしい。

                                        

早梅記 (出世欲から本当の幸せを得られなかった武士の話)

高村喜蔵は10石の軽輩の子として生まれ、24歳の時には父母を亡くしていた。

出生時からの貧しさに、若い時から出世欲に燃えており、言動にそのことが現れ、無事をよしとする朋輩たちに嫌われていた。

母が亡くなった後、足軽の娘のしょうぶを女中に雇った。しょうぶは貧乏に慣れていて遣り繰り上手で、美しく何時しか妻同然の存在になり、癒しの場が出来たのか、出世欲は内には秘めていたが、表面からは消えていた。

そしてある出来事の褒賞として60石で一軒屋敷に住むようになり、転居した日にしょうぶは喜蔵の好みにより床の間に梅を生けた。

半年後、上役から縁談を持ち込まれ、断れば出世は遥か遠退くだろうと、町奉行の娘ともを娶った。

喜蔵はしょうぶに妾になってくれと頼むが、城下にいても誰のためにもならないとの気持ちから、自分自身の匂いも念入れに片付けて、祝言の数日前に何処かに去って行った。

妻のともは明るい女で家庭に安らぎの場をつくってくれ、喜蔵は運にも恵まれて最後は家老までになった。

その過程において江戸詰めもあり、多忙のあまり、跡取りの息子とは心が通わなくなり、ともは夫の進退を案じて暮らすばかりで、喜蔵から彼女の心を救ってやることはなかった。喜蔵が家庭を顧みないこともあって、ともは喜蔵が致仕した直後に死亡した。

致死の後に残ったのは、屋敷と高禄と気持の通わない家族だけであった。

しょうぶとともの二人に支えられて生きてきたのに、それが分らず、人なみ優れた才覚などなかった自分が、自分ひとりの栄華を極めようとして、しょうぶとともを巻き込んでしまったと後悔するばかりであった。

田舎道を呆然と歩くうちに、足軽の家の前で23年振りにしょうぶと会う。しょうぶは「人との小さなしかし多くのつながりを頼りに暮らしておりますが、貧しいなかでのつながりは容易く切れることはありません」と自分の幸せを知らせるように一枝の早めの白梅を差し出した。

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