T.NのDIARY

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1219話 [ 「家康、江戸を建てる」を読み終えて 3/? ] 7/22・金曜(曇・晴)

2016-07-21 10:59:37 | 読書

   (江戸時代前期の上水施設)

                                                          

                                                     

                                                        

第三話 飲み水を引く - あらすじ

 天正18年(1590)、家康が秀吉に関東移封を命じられて間もなくのある日。

 家康は、駿府城下で、鉄砲傷を腰に受け足を不自由にした家臣・大久保藤五郎に、

「わしは、関八州の領主になるのだが、城をつくる江戸は、泥湿地で良質な地下水が得難く、遠浅の海が江戸城のふもとを洗っており、城の周りに人が住んでも、井戸水は塩辛くて飲めないといわれている」が、

おぬしは、菓子作りの名人といわれているので、菓子作りに必要な水についても詳しいだろうから、わしは、再来月の8月に江戸へ国入りすることにしているので、先に江戸へ行って清水の湧きどころを見出しておくように」と命じた。

 よい菓子にはよい水がいる。そればかりか、菓子にそえる濃茶や煎茶も同様と、水こそは、五味の源と心得ている藤五郎は、味分けの舌を、民政にも用いよとの命ですねと有難く受けた。

 そして、藤五郎は、家康に、「この役目、拙者一人にお任せ下され。未来永劫、余人にはお命じならぬよう」 とお願いした。

 藤五郎は、この仕事に武士としての存在そのものを賭けようとしているとみて、家康は、大いに良しと快諾した。

 13年後、慶長8年(1603)。 (1615年、大坂夏の陣、豊臣氏滅亡)

 家康は、この年の2月、朝廷より、右大臣・征夷大将軍の宣下を賜ったのを機に、ときどき関東へ下り、鷹狩りを再び楽しむようになった。 猟場は、現在の三鷹の名で呼ばれている市域内外である。

 家康は、鷹狩りの後、在の者を呼べといって、前に出て来た六次郎という村の名主に、その場ですくった白木の椀の中のしっとりした粘土の赤銅色の土を見せ、

わしは江戸の民々に水を飲ませてやりたいので、鷹狩りに興じながら、地相を観じておるが、このような土があるからには、近くに、きっと豊かな地下水があるはずだ。 その湧きどころへ案内せよ。わしはそこからはるばる江戸へ水を引きたいのじゃ」と命じた。

 湧水点は森の中にあった。 六次郎は、「わしら土地の者は、「七井の池」(現在の井の頭)と呼んどる」という。

 家康は、「六次郎よ、この家康をよう導いた。今日からおぬしは普請役じゃ」と家臣に取り立てた。

 しかし、その上水工事は開始がやや遅れた。

 地元の村人が、わしらが使う水の池が干し上がってしまうと、反対したので、六次郎は一軒一軒説得して歩いていたのだ。

 工事はまず、水路の開削から始まった。 開削は森の中に川を通すということなので、最初のうちは野方掘りが採用された。 掘り幅も二間(約3.6m)なので、さほど難工事ではない。さらに、武蔵野は西高東低で、ある処から北高南低と殆ど下り坂だったので、目白までの工事は容易であった。

 市中に入ると、それまでとは異なるのは、周りの地面が崩れ落ちるのを防ぎ、水そのものの清浄を保つために、水路内部の側面が石垣で固めなければならないことだった。

 それと、市中深く入り込めば、上水は、城郭の中へも入らなければならぬ。城郭内へ入るには、江戸城の外堀を越えなければならないのだ。

 六次郎は川どうしの立体交差を考えた。

 外濠は、ここでは東西方向である。 ちょうど深い谷を流れているので、その上に、北から南へ掛樋をかけるのが完成予定形だった。 掛樋とは上水専用の木造橋であり、人間の通行は厳禁されている。

 のちに水道橋と呼ばれ、江戸の名所になった橋である。

 この日は、その架橋の下準備として、南北の崖へ土を盛る作業が行われていた。

 六次郎は、(牟礼の百姓が普請役とはのう)との満足の表情をして、右手に軍配を振りかざし、作業人足を指揮叱咤していた。

 そのとき、六次郎は、背後から輿に乗った武士に小袖の襟を掴まれた。 

 身体を後ろへ向けて、六次郎は、「それがしを上水普請役・内田六次郎と知りての狼藉かや。 家康公に言いつけるぞ」喚きたてた。

 輿の老武士は、「三河以来の譜代の臣で、殿さまの菓子調整を司っている大久保藤五郎忠行じゃ」と名乗る。

 そして、両者は、輿の上と下で口汚く論争しだした。

 しかし、周囲の人足たちの囃子声に、我に返った藤五郎は、(未来永劫、余人には命じないと言われたのに、どうしてこんな男を普請役に選んだのか)と、家康との約束を思い出した。

 もう15年近く前、当時40代の藤五郎は、家康に命じられて江戸に入った。

 まずは、江戸湾沿いの集落へ赴き、漁師たちに何処の水が一等旨いかと話を聞いて歩いた。

 しかし、上手い水が見つからず台地へ進んだ。

 そして、三ヶ月の苦闘の結果、藤五郎の舌に堪え得たのは、「赤坂の溜池」「神田明神山岸の細流」の二つだった。

 前者は、江戸城の南西方、赤坂台地からしみ出した地下水が北へ流れ落ちて池をなしたもの。後者の神田明神は、江戸城の北東、現在の駿河台の上に立っている原住民鎮守の神なのだが、この駿河台とその西隣の本郷台地の間に小さな谷水の川があり、その流れ。

 前者の水を城の南西地域に巡らし、後者の水を北東地域に巡らせば、地域的な重なりがなく、江戸市中を効率的に網羅することができる。

 藤五郎は、早速に神田に住みつき、排水方式はさしあたり開渠で行い、ところどころに貯水池や井戸を設けて水が汲めるようにするとの献策書を書いた。むろん、水そのものも添えた。

 藤五郎は、褒美をもらった上に、「主水(もんと)」の名も賜った。

 また、15年経ったころまでは、「藤五郎の上水」は人々の喉を潤した。

 しかし、江戸はもはや15年前の江戸ではなく、海は埋め立てられ、川はまとめられて、可住面積は殆ど別の地のように増え、人口はあっという間に5万を超えた。

 水が足りぬことは自明だった。水を足すことを計画し、実行するのは為政者として当然だろう。

 家康は、武蔵野の原野から浄水をはるばる引っ張り込んで、市内へ配ろうという大計画の工事を、湧水池がある牟礼の村の六次郎という名主に命じた。

 藤五郎には、くれぐれも余人には命じないと家康から認められた誇りがある。この誇りは五体満足でない男にとってどれほど大きく生きる糧になっているか。なのに、なのに、六次郎に命じたのか。

 家康が、そのことを知っていて、なぜ、ただの名主に普請役を命じたのか。牟礼の村の顔であるというその一言だったのだろう。

 池の水をとるためには、地元の同意が不可欠である。さらに上水完成後の水質管理においても地域ぐるみで監視することが必要である。いわゆる村そのものを抱き込むために、家康は六次郎を選んだのだ。

 藤五郎も、そのように考えて自分自身を納得させようとしたのだった。

 掛樋の工事はあっさりと終った。水路橋が架けられたのだ。

 六次郎は、いよいよ本格的に郭内へ討ち入ることになる。これまでの工事が例えば、大動脈を長駆みちびくものだとすれば、今後は毛細血管を張り巡らすものとなる。 工事はここからが本番。 熟練の技術と最新の配慮が求められることになるだろう。

 普請の現場に来た藤五郎に、六次郎は、「おぬしが築いた街中の開渠は、道の脇に設けたものが多いようだが、全部取り壊させてもらい暗渠にする」という。

 暗渠、つまり水道管の地下設備。当時の言葉では陰溝という。松や檜といったような硬くて腐りにくい木の板を組んで六尺(約1.8m)四方という巨大な四角い木樋(送水管)を作り、道の下に埋めるのだ。

 藤五郎は、暗渠は大いに結構だと反対はしなかった。

 藤五郎は、六次郎に技術的なことを質問した。

 名だたる旗本や大名の屋敷地はおおむね山の手にある、ということは台地にあるのだが、いったん低きに落ちた水を再び引っ張り上げるのは、自然の法則に反するのだがどうするのじゃと。

 六次郎は、わしも分からん。しかし、あの若い侍が取り仕切ってくれるのだと、二人の前に現れた20代の春日与右衛門を紹介してくれた。

 与右衛門は、徳川家の上級家臣である阿部正行の若党だった。

 阿部は江戸の街づくりの土木工事を担当していた。

 家康は、上水の土木工事が市内に入ったら、もはや、六次郎の手に負えないだろうと、阿部に上水普請を補佐せよとの命令を出し、阿部が自分の家臣の土木実務者を派遣していたのである。

 与右衛門は、先ず、土木工事の経験豊富な労働者を、河川工事専門の伊奈忠次や農業用水路建設を行なう用水奉行などの処から集めた。

 後の世に、神田用水と呼ばれることになる上水道の設置工事は、ここにおいて、素人による試行錯誤から専門家集団による高度の開発事業に変ったのである。

 藤五郎は与右衛門の案内で、二本の道が直交する場所にある「枡」を覗いて見た。今日でいうマンホールである。

 首をのばし、四角い竪穴の奥を覗くと、四方の壁にはぴったりと木の板が貼られている。一方の壁の入り管が、反対側に出管がみられ、ある枡では入り管が下のほうにあり、出管が上のほうにあって、これで高い台地に水を送ることができるのだと知った。

 藤五郎は与右衛門から、枡には、この水位回復機能の他にも重要な働きがある。 一つは、砂や土を沈めこんで水をきれいにする沈殿装置としての機能、もう一つは、木樋と木樋の継ぎ目になる分水機能があるのだと説明を受けた。

以下略

                                                    

                    「第二話 金貨を延べる」のあらすじに続く

 

 

 

 

 

 

 

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