15日に指された第43期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は1勝すれば挑戦者の永瀬拓矢七段が1勝,連勝で挑戦者の黒沢怜生五段が0勝。
振駒で黒沢五段の5筋位取り中飛車から相穴熊。後手の永瀬七段から仕掛けました。玉型は先手と比べて不備がありましたが,よいタイミングの仕掛けであったように思います。
後手が角を打って駒得を目指すとともに先手の狙いの☗4四銀を阻止した局面。先手は両方を受けるために☗6六角と打ち☖同角成☗同歩と進みました。
ここでは☖4五角と打てばまた駒得を目指しつつ銀の進出も防げましたが☖6七角と打ちました。この後の後手の読み筋からすると☖4五角が優ったと思いますが,これも悪い手ではありません。先手は☗7八角と打って☖4五角成を防ぎました。
後手は☖7七歩成☗同桂と捨ててから☖7六角成と反対側に馬を作ったのですがこれが緩手。6七に打ったのを生かして☖4九角成☗同金☖8七歩成と攻めれば,☗7八角を咎めることができたようです。実戦は角を切らなかったので☗7四飛と馬取りに回られ☖3二馬の撤退を余儀なくされました。
第2図となって後手玉は堅いのですが☗8六歩と取られて攻める場所を失うことに。ここからは先手がよくなっているようです。
黒沢五段の勝利で第二局が実現。27日に指されます。
スピノザの哲学では自然の多様性が肯定されていて,人間も自然の一部であるからには,人間の多様性も同じように肯定されなければならないということは理解できたと思います。そしてこのことが,スピノザの哲学の実践の上では,最重要な規準となります。なぜなら,人間の多様性が肯定されるべきものであるなら,ある特定の人間あるいは人間の集団を悪malumとみなし,あるいはそうでなくとも異質とみなし,それを排除するような主義や思想,またアジテーションやデモンストレーションといった言動のすべては,スピノザの思想と相反するものであることになるからです。
民族主義や国家主義,あるいは優性思想とか異教徒や異端者の排斥といったように,こうした思想や言動は多岐にわたります。そうしたもののすべてが,人間の多様性を否定しているという共通の観点から,スピノザの哲学と全面的に対峙することになります。他面からいえばスピノザの思想は,そのような排他的思想とは鋭く対立するような思想としてあるのです。そしてこのような意味において,スピノザの思想は現在的にも大きな意義をもっているということができるでしょう。
ただし,実践として重要であるのは,単にそのような排他的思想と対峙するなら,いい換えれば排他的思想を有する人びとの虚偽falsitasあるいは誤謬errorを非難すれば事足りるというわけではないということです。実際,もしスピノザの思想に従ってそのような言動を採用するということになれば,これは排他的な人びとを悪とみなすすなわち否定しているも同然であって,これではスピノザの思想に従うことによって人間の多様性を否定する,すなわちスピノザの思想を否定しているのと同じことです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第十五章の冒頭において,理性ratioが聖書に奉仕すべきと主張する懐疑論者scepticiは理性なしに狂っていて,聖書が理性に奉仕すべきであると主張する独断論者dogmaticiは理性とともに狂っているという意味のことをいっています。それと同じように,排他思想の持ち主はスピノザ主義なしに狂っているのですが,スピノザの哲学に従って排他思想の持ち主を否定する者は,スピノザ主義とともに狂っているのです。
振駒で黒沢五段の5筋位取り中飛車から相穴熊。後手の永瀬七段から仕掛けました。玉型は先手と比べて不備がありましたが,よいタイミングの仕掛けであったように思います。
後手が角を打って駒得を目指すとともに先手の狙いの☗4四銀を阻止した局面。先手は両方を受けるために☗6六角と打ち☖同角成☗同歩と進みました。
ここでは☖4五角と打てばまた駒得を目指しつつ銀の進出も防げましたが☖6七角と打ちました。この後の後手の読み筋からすると☖4五角が優ったと思いますが,これも悪い手ではありません。先手は☗7八角と打って☖4五角成を防ぎました。
後手は☖7七歩成☗同桂と捨ててから☖7六角成と反対側に馬を作ったのですがこれが緩手。6七に打ったのを生かして☖4九角成☗同金☖8七歩成と攻めれば,☗7八角を咎めることができたようです。実戦は角を切らなかったので☗7四飛と馬取りに回られ☖3二馬の撤退を余儀なくされました。
第2図となって後手玉は堅いのですが☗8六歩と取られて攻める場所を失うことに。ここからは先手がよくなっているようです。
黒沢五段の勝利で第二局が実現。27日に指されます。
スピノザの哲学では自然の多様性が肯定されていて,人間も自然の一部であるからには,人間の多様性も同じように肯定されなければならないということは理解できたと思います。そしてこのことが,スピノザの哲学の実践の上では,最重要な規準となります。なぜなら,人間の多様性が肯定されるべきものであるなら,ある特定の人間あるいは人間の集団を悪malumとみなし,あるいはそうでなくとも異質とみなし,それを排除するような主義や思想,またアジテーションやデモンストレーションといった言動のすべては,スピノザの思想と相反するものであることになるからです。
民族主義や国家主義,あるいは優性思想とか異教徒や異端者の排斥といったように,こうした思想や言動は多岐にわたります。そうしたもののすべてが,人間の多様性を否定しているという共通の観点から,スピノザの哲学と全面的に対峙することになります。他面からいえばスピノザの思想は,そのような排他的思想とは鋭く対立するような思想としてあるのです。そしてこのような意味において,スピノザの思想は現在的にも大きな意義をもっているということができるでしょう。
ただし,実践として重要であるのは,単にそのような排他的思想と対峙するなら,いい換えれば排他的思想を有する人びとの虚偽falsitasあるいは誤謬errorを非難すれば事足りるというわけではないということです。実際,もしスピノザの思想に従ってそのような言動を採用するということになれば,これは排他的な人びとを悪とみなすすなわち否定しているも同然であって,これではスピノザの思想に従うことによって人間の多様性を否定する,すなわちスピノザの思想を否定しているのと同じことです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第十五章の冒頭において,理性ratioが聖書に奉仕すべきと主張する懐疑論者scepticiは理性なしに狂っていて,聖書が理性に奉仕すべきであると主張する独断論者dogmaticiは理性とともに狂っているという意味のことをいっています。それと同じように,排他思想の持ち主はスピノザ主義なしに狂っているのですが,スピノザの哲学に従って排他思想の持ち主を否定する者は,スピノザ主義とともに狂っているのです。