スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&第三部定理五一の意味

2017-12-12 19:12:04 | 競輪
 一昨日の伊東温泉記念の決勝。並びは新山‐早坂‐伏見の北日本,黒田‐友定の岡山,太田‐原田‐阿竹の徳島で渡辺は単騎。
 早坂がスタートを取って新山の前受け。4番手は内に太田,外に黒田で併走。渡辺が最後尾という変わった周回に。4番手の併走が残り2周のホームの入口まで続き,そこでようやく内の太田が引きました。新山はすぐに誘導を斬って発進。4番手に黒田,6番手に太田,最後尾に渡辺の一列棒状となってそのまま打鐘。バックの入口から太田が発進すると,さほど引き付けることなく新山の番手から早坂も発進。直線にかけて太田もよく迫ったのですが,展開をフルに生かした早坂が優勝。太田が半車輪差で2着。太田マークの原田が半車身差の3着。
 優勝した宮城の早坂秀悟選手は記念競輪初優勝。このレースは新山と太田という新鋭同士の対戦となって楽しみだったのですが,新山は後ろの優勝でも構わないという走り方をしたのに対し,太田は自分も優勝したいというレースに徹したため,早坂に有利な展開になりました。それでも太田は二段駆けを相手にかなり迫っていて,中団に固執せずにもう少し早めに引き,いいタイミングで駆けていった方がよかったようには思えます。ここは展開の恩恵を受けましたが,早坂は自力でも記念競輪を優勝しておかしくないだけの脚力がある選手だと思っています。ただ組み立てに難がある印象ですので,そのあたりは課題ではないでしょうか。

 善bonumを希求ないしは肯定し,悪malumを忌避あるいは否定するという人間の現実的本性actualis essentiaが,何が悪であり何が善であるかについて一切の普遍性を示していないということは,単に現実的に存在するある人間と別の人間との間で一致をみないことだけを意味しているのではありません。第三部定理五一は,異なった人間が同一のものから異なった仕方で刺激されるということと同時に,同一の人間が同一のものから,異なった時間tempusすなわち持続duratioのうちにあるときに,異なった刺激を受けるということを示しているからです。つまり同じ人間であれば同じものからいつでも同じ受動passioを受けるのではなく,異なった受動を受ける場合があるのです。
                                  
 すでにみたように,悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動でした。喜びlaetitiaは能動actioでもあり得ますが,受動でもあり得ます。したがって,同一の人間が異なったときに同じものから,あるときには悲しみを感じ,あるときには喜びを感じるということがあり得るのです。そして善は喜びの認識cognitioであり,悪は悲しみの認識ですから,同じ人間がかつては悪とみなしたがゆえに否定したものを,今は善とみなして肯定するということがあり得ます。もちろん逆に,かつては肯定したものを後に否定するという場合もあるでしょう。
 ごく単純にいえば,人間の味覚というのは変ずるものなのであって,以前は不味いと感じて食べなかったもの,すなわち否定していたものを,今は美味と感じ好んで食べるようになったすなわち肯定するようになったということは,自身の経験として知っているという方もいらっしゃるでしょうし,自身の経験としてではなくても,ある人にとってそのような食べ物があるということを知っている方がほとんどでしょう。こうしたことが食物に対してだけではなく,すべてのもの全般に妥当するということを主張しているのが第三部邸五一の後半部分であり,前半部分についていえば,ある特定の食物を,ある人は美味と感じ別の人は不味いと感じる場合があるというような例が,食物に限定されずすべてのものに妥当するといっているのです。
 このようにして,何が善で何が悪かは,同じ人間にとっても時間の経過とともに変ずるのです。
コメント
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