スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ハイセイコー記念&全能と全知

2017-11-02 19:18:02 | 地方競馬
 昨晩の第50回ハイセイコー記念
 押して先手を奪いにいったのがサンダーマックス。外からクレセントシティーが上がっていき,馬なりで前に出られそうでしたが,サンダーマックスが譲る姿勢をみせなかったので2番手に控えました。3番手にクロスケとコパノテッドの2頭で5番手にクリスタルシルバーとハセノパイロの2頭。少し間があってマースインディ,メテオバローズ,プレディクトの3頭が中団。後方をタイムロードが追走してその後ろにトーセンブルとヴァンルモンテ。大きく取り残されたのがキャスタウェイ。前半の800mは50秒3のミドルペース。
 3コーナーを回ると逃げたサンダーマックスは一杯となってクレセントシティーが先頭に立ち,ほとんど並ぶようにハセノパイロ。直線の終盤にかけてはこの2頭の競り合いとなり,競り落とした外のハセノパイロが優勝。直線の入口でクロスケを弾くようにこの2頭の外まで出てきたマースインディと大外を回ったトーセンブルの2頭が併走でクレセントシティーに迫ってきましたが,この追撃は凌いだクレセントシティーが1馬身4分の3差で2着。大外のトーセンブルがクビ差の3着でマースインディはハナ差の4着。
 優勝したハセノパイロは新馬戦は追い込むもクビ差の2着。2戦目の条件戦で初勝利をあげると前走の認定競走も連勝。3連勝での南関東重賞制覇。前走で負かした馬が平和賞で離されたとはいえ入着していましたので,勝つ可能性もありそうかと考えていました。初戦の2着はおそらく距離不足であったためと思われ,この馬自身はさらに距離が伸びても不安は薄いのではないかと思います。大井で実績を上げていた馬たちをまとめて負かしたのは評価しなければなりませんが,レース全体のレベルとしては鎌倉記念や平和賞の方が上だったのではないかというのが僕の判断です。4代母が今年の兵庫チャンピオンシップを勝っている現役のタガノディグオの6代母となる同一牝系です。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞4勝目。第48回以来2年ぶりのハイセイコー記念2勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第43回以来7年ぶりのハイセイコー記念2勝目。

 第一部定義六から分かるようにDeumは実体substantiamです。あるいは第一部定理一四から自然のうちに存在する唯一の実体です。そこで第一部定理三四に依拠して神の全能が神の本性essentiaに属すると解するのであれば,観念ideaは思惟の様態cogitandi modiですから,神の全能は神の全知に本性の上で先立つことになります。なぜなら全知とはスピノザの哲学では神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusを意味しなければなりませんが,スピノザの哲学でいう知性というのは観念の集積のことであるからです。実際にスピノザも,無限知性が思惟の様態であるということを肯定しています。スピノザは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態が無限知性であるということをシュラーGeorg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四の中で示しているからです。
                                 
 ただし,全能であるものが全知でなければならないということが,このことによって否定されるかといえばそうではありません。第一部定理二一から分かるように,神のある属性の直接無限様態というのは,その属性が存在するのであれば必然的にnecessario存在する様態であるからです。したがって思惟の属性が存在するなら無限知性も存在します。ただ,思惟の属性はそれ自身を原因causaとして存在するのに対して,無限知性は無限知性自身ではなく思惟の属性を原因として存在するという違いがあるだけです。もちろんある場合にはこの相違というのを重大な相違として解さなければならない場合もあるのですが,全能であるものが必然的に全知であるということを示す場合には,この相違に関してはそうも重大に考えなければならないというわけではありません。
 これにより,ウェルテルがそれをどのように解しているのだとしても,全能を神の代名詞として用いる限り,それは全知でなければなりません。というより,ウェルテル自身は当然ながらそのように解しているだろうと僕は思います。しかしそれを,スピノザの哲学と合致するような意味で,つまり全能が全知に対して本性の上で先立つというような意味で解していたとは僕には思えないのです。というのは,ウェルテルは全能者が人間を創造したといっているからです。この創造したといういい方のうちには,明らかに全能者の意志voluntasが介在しているように思われるからです。
コメント
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