スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&排他的思想の根源

2017-12-31 19:30:59 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた第41回東京2歳優駿牝馬。そのうちの1頭だったビジネスライクがゲートの中で暴れて左の後ろ脚を挫創してしまったため競走除外となり15頭。
 ベニアカリが発馬で立ち上がってしまい大きく遅れました。先手を奪ったのはヴィブラビ。2番手にシングンレガシイ。3番手はストロングハートとエターナルモール。5番手がグラヴィオーラで6番手がポッドジゼル。7番手はゴールドパテックとクレイジーアクセル。9番手にラヴバインド。10番手にカシノランサムとオールパスレルで12番手がリンノストーン。ここまでが一団。水が開いてフライトゥザムーン,ベニアカリ,サラヒメの順で追走。最初の800mは50秒1のハイペース。
 3コーナーの手前から外をグラヴィオーラが進出。コーナーはヴィブラビとグラヴィオーラが雁行で回り,この後ろにストロングハートとシングンレガシイ。ゴールドパテックがこの2頭の後ろに。直線に入るところで逃げたヴィブラビがやや外に膨らみました。この影響でグラヴィオーラも少し外を回らされましたが,あまり関係なくヴィブラビを抜いて先頭に立つと,そのまま抜け出して優勝。内が開いたので最内に進路を選択したストロングハートが1馬身2分の1差で2着。ストロングハートとシングンレガシイの後ろから,ストロングハートとヴィブラビの間に進路を選択したゴールドパテックがクビ差の3着。グラヴィオーラの外に回ったシングンレガシイが1馬身差の4着でヴィブラビが半馬身差で5着。
 優勝したグラヴィオーラは前走までは北海道所属で7戦2勝2着2回。2回の2着が北海道重賞と重賞で,どちらもストロングハートと0.1秒差でしたから,逆転が可能な差。ですからこの馬が勝つというケースも十分にあり得ると考えていました。おそらく上位3頭の能力がほかの馬より上であったと思われ,きわめて順当な結果であったといえると思います。この3頭は少なくとも桜花賞までは来年の南関東3歳牝馬路線の中心を担っていくことになるのではないでしょうか。父はサウスヴィグラス。母の父はタニノギムレット。5代母がマジックゴディスで3代母がダイナアクトレス。母のひとつ上の半兄がスクリーンヒーロー。Graviolaはポルトガル語で植物の一種。サワーソップとかトゲパンレイシとも呼ばれるようです。
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は一昨年の東京ダービー以来の南関東重賞制覇で南関東重賞限定では34勝目。第26回以来15年ぶりの東京2歳優駿牝馬2勝目。前走後に管理することになった船橋の佐藤賢二調教師はハイセイコー記念以来の南関東重賞制覇。東京2歳優駿牝馬は初勝利。

 受動passioによって喜びlaetitiaを感じる場合はそれを否定するどころか肯定し,喜びも悲しみtristitiaも感じない場合は肯定はしないかもしれないけれど否定することはないのですから,現実的に存在するある人間が他の人間を否定するのは,その人間が悲しみを感じた場合であることになります。
                                
 このことも論理的に示しておきましょう。第三部諸感情の定義三により,悲しみはある人間の完全性perfectioがより大なる状態からより小なる状態に移行することです。したがってある人間が悲しみを感じているときには,その人間の現実的本性actualis essentiaは阻害されていることになります。ところが第三部定理七第三部定理九によって,この受動状態にあるときも現実的に存在する人間は自己の有に固執するという現実的本性を有し,かつそのことを意識しています。よってある人間が自身に悲しみを与えると表象するimaginariなら,他面からいえばある人間が自身の現実的本性を阻害すると表象するなら,その人間は悲しみを与えると表象する人間のことを否定するでしょう。よって第三部定理一三により,その人間は自分に悲しみを与えると表象する人間のことを排除しようするでしょう。
 ここに排他的思想の根源があります。したがって排他的思想を有する人間は,悲しみという感情affectusに隷属している人間であることになります。
 これはその通りですが,ひとつだけ注意しておかなくてはならない点もあります。そもそも第四部定理四によって,この種の受動は現実的に存在する人間にとっては避けようがないことです。したがってこの規準に従う限り,現実的に存在する人間は多かれ少なかれ排他的思想の持ち主です。ですが喜びであれ悲しみであれ,感情というのは自分がそれを感じたということを認識する場合には,要するに自身の感情を反省的に認識した場合には,それとは別の感情の要因となるという場合があります。ですから,たとえばAという人間がBという人間あるいはBという人間の何らかの行いを表象することによって悲しみを感じたとしても,一律的にAはBに対して排他的思想を有するというようにはいえません。逆に喜びを感じたから排他的思想をもたないと断定できるわけでもないのです。
コメント
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