スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港国際競走&善悪の普遍性

2017-12-11 19:10:03 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で開催された昨日の香港国際競走。今年も4レースすべてに日本馬が参戦しました。
                                    
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。トーセンバジルが5,6番手の外,キセキは最後尾を追走。キセキは向正面で動いていき,3コーナーからは日本の2頭が併走で直線に。ただキセキはその時点ですでに手が動いていて直線での末脚は欠いて勝ち馬から9馬身半差の9着。トーセンバジルは外から4頭目あたりから前を追い掛けましたが,残り150mくらいで脚色が一杯。勝ち馬にはそこから引き離される形で2馬身半差の3着。このレースは端的にいって上位2頭の力量が上位でした。トーセンバジルは実績面からいえば3着でも順当でしょう。キセキは条件戦を除けば古馬相手のレースが初めてで,後方からでは苦しかったようです。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。ワンスインナムーンは押して先頭に立ち,そのまま逃げました。逆にレッツゴードンキはダッシュが鈍く最後尾から。ワンスインナムーンは3コーナー過ぎに外から交わされて2番手。4コーナーで切り返して外に出ましたが,不利を受けたこともあって後続に飲み込まれて勝ち馬から13馬身4分の1差の12着。レッツゴードンキは馬群の中をそれなりに伸びてきましたが勝ち負けというところまではいかず3馬身4分の1差の6着でした。この路線の香港勢は強く,力量に見合った結果になったのではないかと思います。
 香港マイルGⅠ芝1600m。サトノアラジンは2頭並びの最後尾の外を追走。少し行きたがっていたように僕には見えました。3コーナーを過ぎてから外を捲り気味に進出し,直線では前を射程圏内に入れる位置までは取りつきましたが直線では伸びを欠き,勝ち馬から7馬身差の11着でした。この馬は能力は高いのですが,控えて末脚を生かすのが持ち味。このようなタイプの馬は香港のレースでは苦戦する傾向にあり,一か八かでもう少し前に位置するレースを試みてほしかったというのが正直な感想です。
 香港カップGⅠ芝2000m。ネオリアリズムはかなり掛かって内の2番手。その外に位置したのがスマートレイアー。ステファノスは後方2番手でしたが,向正面で内に入れて後方4番手まで上がりました。スマートレイアーは直線の入口では単独の2番手に。しかしそこから逃げていた馬に離され,4馬身4分の3差で5着。ネオリアリズムは直線で逃げた馬とスマートレイアーの間に。一旦は2番手に上がったものの,外から交わされ3馬身4分の3差で3着。ステファノスはスマートレイアーの外から伸びて4馬身4分の1差の4着でした。このレースは勝ち馬が展開利を生かして楽に逃げ切ったレース。ネオリアリズムは内から好発でしたので,前を譲らずそのまま逃げてしまった方がよかったのかもしれません。日本の3頭はあまり差のない入線で,それぞれの力は出し切ったものと思います。

 現実的に存在する人間が善bonumを希求し悪malumを忌避するということ,いい換えれば善を肯定し悪を否定するということは現実的本性actualis essentiaです。ですがこれは現実的に存在する人間であればだれにでも妥当する現実的本性という意味であって,善および悪について何か普遍的な真理veritasを示しているわけではありません。なぜなら第四部定理一九にあるように,現実的に存在する各々の人間は各々の人間の現実的本性に従って善を希求し悪を忌避する,すなわち善を肯定し悪を否定するのですから,もしも各々の人間の現実的本性が完全に一致すると仮定するなら,これによりすべての人間が同一のものを希求ないしは肯定し,同様に同一のものを忌避ないしは否定するということになるでしょうが,第四部定理三二にあるように,現実的に存在する各々の人間が受動passioに隷属している限りではその現実的本性が完全に一致することはありません。そして第四部定理三により,現実的に存在する人間が受動から完全に免れるということは不可能なのですから,実際に各個人の現実的本性が完全に一致するということはないのです。よってたとえばAという人間がXを悪とみなして忌避または否定したとしても,Bという人間はそのXを善とみなし,むしろこれを希求あるいは肯定するということがあり得ることになります。逆にAはYを肯定するけれど,BはYを否定するという場合もあり得ることになります。こうしたことはこのように論理的に示さずとも,僕たちが経験によって知っていることでしょう。
 よって,現実的に存在する諸個人は善を肯定し悪を否定するという現実的本性の下に生きるのですが,だからといってすべての人間が同じものを肯定しまた否定するという現実的本性を有しているわけではありません。自身がAを否定するからといって,そのAを肯定する人間もまた現実的に存在しているという場合がほとんどであるのです。ですから現実的に存在する人間が善を肯定し悪を否定するということは,人間の現実的本性としては一般的な真理ではありますが,何が善であり何が悪であるのかということについてそれと同じ意味での普遍的な真理を示しているというわけではないのです。
コメント
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