スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&悪の否定と肯定

2017-12-10 19:49:47 | 中央競馬
 第69回阪神ジュベナイルフィリーズ
 先手を奪ったのはラスエモーショネス。2番手にラテュロス。この後ろはサヤカチャン,マドモアゼル,リリーノーブル,コーディエライトの集団で,掛かり気味にロックディスタウンも加わっていきました。これらの後ろからマウレアとラッキーライラック。さらにグリエルマ,ハイヒール,モルトアレグロの3頭。そしてソシアルクラブとナディア。さらにトーセンアンバーとトーセンブレスで,最後尾にレグルドールとノーブルアース。前半の800mは47秒7のスローペース。
 直線の入口では逃げるラスエモーショネスにコーディエライトが並び掛け,さらにその外にロックディスタウン。直線に入ってロックディスタウンが一旦は先頭に立ちましたが,前半のロスが響いたようでそこからの末脚に欠けました。代わって先頭に立ったのはリリーノーブルで,その外から追ってきたのがラッキーライラック。直線の半ばからはこの2頭の優勝争いとなり,外から差したラッキーライラックの優勝。4分の3馬身差の2着にリリーノーブル。競り合う2頭を後ろから追ったものの迫るところまではいかなかったマウレアが半馬身差で3着。
 優勝したラッキーライラックは8月に新潟で新馬戦を勝ち,10月のアルテミスステークスで重賞制覇。連勝でここに出走していました。このレースは実績があって上位人気に推された馬が勝った場合には将来的に大成するケースが多く,この馬もそうなる可能性が大きいとみてよいのではないでしょうか。ペースのわりに3着と4着に2馬身半の差がつきましたので,おそらく上位3頭の能力が上位で,2着馬と3着馬にも巻き返す可能性があるのではないかと思います。父はJRA賞で2011年の年度代表馬,2012年2013年の最優秀4歳以上牡馬のオルフェーヴルでその父はステイゴールド。3代母がステラマドリッドで祖母の半妹にJRA賞で2002年の最優秀4歳以上牝馬のダイヤモンドビコー
 騎乗した石橋脩騎手は2012年の天皇賞(春)以来の大レース2勝目。管理している松永幹夫調教師は昨年のJBCクラシック以来の大レース4勝目。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。

 現実的に存在する人間がAを悪malumとみなすことの条件になるAの混乱した観念idea inadaequataと,Aを多様性のうちに肯定するAの十全な観念idea adaequataが,その人間の精神mens humanaのうちで両立し得ることはこれで明らかになりました。ただ,厳密にいえばこれは論理的に明らかになったまでで,その人間のうちで現実的なものとして明らかになったというわけではありません。というのも,哲学的肯定の根拠になる第一部定理一六については,僕たちは理性ratioによってすなわち第二種の認識cognitio secundi generisによって認識するcognoscereのであり,Aを現実的に存在する個別なものとして十全に認識するのは第三種の認識cognitio tertii generisであるからです。とはいえAが第三種の認識によって十全に認識された場合でも,第四部定理一は適用が可能なのですから,その場合にもその人間はAを混乱して認識することによってAを悪とみなす場合があり得ることは明白で,この意味においては単に論理的にではなく現実的にも明らかになっていることになります。また,たとえその人間がAを第三種の認識によって認識していないという場合にも,第一部定理一六によって自然の多様性が肯定されなければならないということについてはその人間は一般的な真理veritasとして認識することはできるのであって,そのゆえにたとえAが自身にとっての悪ではあっても,その多様性の肯定という観点からはAもまた肯定されなければならないということは理解できることになります。
                                
 第二部定理四二の意味から,真理の規範は真理自身なので,悪とみなすものに対する否定と,悪に対する哲学的肯定とのどちらが真理であるのかということを,僕たちは本来的にはたちどころに理解します。ただし,悪に対する否定というのは,大抵の場合には何らかの感情affectusを伴うものであって,第四部定理七によってそうした感情はそれと相反する感情によらなければ除去されません。このために,論理的には多様性が肯定されなければならないということは理解されていても,否定的な感情に隷属してしまうということが現実的に存在する人間には往々にして生じます。そこで,悪に対する否定は人間の現実的本性actualis essentiaではあっても,永遠のaeternus真理ではないということを,別の観点からも示しておきます。
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