スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

九十九島賞争奪戦&相反する条件

2017-12-18 19:00:51 | 競輪
 昨日の佐世保記念の決勝。並びは坂本‐成田‐和田の北日本,山田‐椎木尾の近畿,北津留‐井上‐園田の九州で吉田は単騎。
 井上がスタートを取って北津留の前受け。4番手に坂本,7番手に山田,最後尾に吉田の周回。残り3周のバックの出口から山田が上昇開始。ホームで北津留は引いて山田が誘導の後ろに入りました。坂本は北津留に蓋をするようにバックまで併走し,ここから発進。山田を叩いて打鐘。4番手に山田,6番手に北津留,最後尾に吉田の一列棒状でホームに入ると,吉田はインから上昇し,椎木尾の後ろに入って北津留が7番手に。好位置になった山田が捲って優勝。追って捲った吉田の外から直線で差し込んだ井上が半車身差で2着。吉田が半車輪差で3着。
 優勝した京都の山田久徳選手は記念競輪初優勝。このレースは地元の井上に前を任された北津留がどういう競走をするのかということと,単騎の吉田がどう動くのかということがポイントだと思っていました。井上が前を取って前受けして,山田が斬りにきたときにあっさりと引きましたから,引いてから巻き返すというのは九州の作戦としてあったのではないかと思います。吉田がこのラインを追わなかったのは,おそらく前を斬っても山田がそのまま先行するということはないとみていたからでしょうし,坂本ラインに続かなかったのも,北津留がすぐに巻き返していくからだと思っていたからだと推測されます。坂本の先行はあり得る展開のひとつだとは思われますが,こんなに単調なレースになるとは予想外。どこか拍子抜けしてしまうような競走でした。山田だけがうまく立ち回って自分の力を十分に出せたがゆえの優勝ではないでしょうか。

 ひとつ注意しておかなくてはならないのは,スピノザはあまり主体subjectumといういい方は用いないのであって,それが用いられる場合には用心して解釈しなければならないということです。
                                
 第一部定理三二から分かるように,スピノザは意志voluntasの自由liberaを認めません。これは想像ないしは表象imaginatioの産物です。ところが主体という語は,まずはこのような自由な意志の主体としてイメージされます。実際,人間には自由な意志があると思い込んでいる人は,主体というのを自由な意志の主体と思い込むのは当然のことでしょう。このふたつはほぼ同じことを意味していると解することができるからです。
 しかしスピノザは自由な意志を認めないのですから,スピノザが主体という語を用いたとしても,それは上述のような意味ではあり得ません。このことは常に注意しておかなければならないことのひとつです。第三部定理五で主体といわれる場合についていえば,これはたとえばAというのをひとつの個物res singularisとみなし得るならば,そのAのうちにはAの本性naturaと相反する本性は存在し得ないということです。いい換えればAの本性を滅ぼし得るような本性はAのうちには存在し得ない,いい換えればそうしたものはAの本性を構成し得ないということです。
 しかしAとは別の個物,たとえばBという個物の本性はAの個物と相反する本性すなわちAあるいはAの本性を滅ぼし得るような本性であり得るのです。もし自然Naturaのうちに個物がAとBのふたつだけしかないと仮定するなら,第四部公理四により,Aの本性とBの本性は必然的にnecessario相反する本性である,いい換えればAの本性はBの本性を滅ぼし得るし,Bの本性はAの本性を滅ぼし得るということが帰結しなければなりません。これはきわめて非現実的な論理ではありますが,ここから重要なことが分かります。それはすなわち,この例でいえば,Aの本性とBの本性に相違がある限りにおいて,Aの本性とBの本性は相反するのだということです。他面からいえば,Aの本性にもBの本性にも共通する要素によっては,ふたつの本性が相反するとはいわれ得ないということです。つまり本性が一致するなら,相反することもないのです。
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