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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宇都宮ワンダーランドカップ&自己

2017-05-16 19:05:13 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された宇都宮記念の決勝。並びは武田‐神山‐牛山の茨城栃木,山田‐稲川‐北野の近畿中部,北津留‐園田の福岡で渡辺は単騎。
 稲川がスタートを取って山田の前受け。4番手に武田,7番手に北津留,最後尾に渡辺という周回に。残り2周のホームに入る手前から北津留が上昇開始。ホームで山田を抑えました。このラインに続いていた武田はバックまで山田の外で牽制。打鐘の少し前に北津留をゆっくりと叩き,誘導も追い抜いて先行態勢に。ですが山田がすぐさま外から巻き返していったために,ホームの入口では先行争い。これを山田が叩いて武田は稲川の内で粘ることになりました。この競りに決着がつかないままバック。引いていた北津留が満を持して発進すると短くなっていた隊列をあっさりと捲り切り,マークの園田と抜け出しました。直線では園田も迫りましたが北津留が粘りきって優勝。マークの園田が半車身差の2着で福岡のワンツー。最後尾だった渡辺もこのラインを追うような形で3車身差の3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は立川記念以来となる記念競輪5勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは茨城栃木勢が人気になっていましたが,最近の武田は自力ではあまり結果が出ていないこと,また山田にも先行意欲がありそうなことから,福岡両者の方が有利ではないかと見立てていました。武田のイン粘りは予想外でしたが,展開上は致し方ないところ。そのために僕が想定していた以上のいい展開となったため,福岡勢だけで抜け出すことになったものと思います。北津留はイン捲りのようなレースで好走することが多くなっていましたから,絶好の展開とはいえ外を捲っての快勝というのは今後に向けて収穫だったのではないでしょうか。

 人間の精神mens humanaが第三種の認識cognitio tertii generisによって認識できる個物res singularisが,自分の精神だけに限定されるわけではないことは,第五部定理二五からなお明らかだといえます。この定理Propositioではものを第三種の認識によって認識するcognoscereことが精神の最高の徳summaque virtusであるとされています。このとき,ものといわれているのが自分の精神だけに限定され得ないことは明白です。さらにそれが精神の最高の徳といわれ得るのは,現に人間の精神が第三種の認識によってものを認識することができるからにほかならないからです。
                                     
 よって,第二部定理二四の意味から,人間の精神が個物を第三種の認識で認識することは,単に人間の精神による個物の認識であるというよりは,神Deumの認識です。なので現実的に存在する思惟の属性Cogitationis attributumの個物である自分の精神を第三種の認識で認識するということは,人間の精神による自己の認識ではなく神の認識であるということになります。すでにこの様式でのみ人間の精神は自分の精神を十全に認識することが可能であるということは明らかになっています。よって人間の精神による自己認識は,十全な認識であることができないと僕は解します。他面からいえば,人間の精神が自分の精神について十全に認識するときには,実際には自分の精神について何かを認識しているのではなくて,神について十全に認識しているのだと僕は解します。
 一方,現実的に存在する人間が,自分の身体corpusや自分の精神について,それらが現実的に存在するものと認識することはあります。というか,そのような認識は人間が現実的に存在している以上は,必然的にnecessario生じなければならないといえます。ですがこの認識というのはすでにみたように十全な認識ではなく,表象imaginatioです。そしてこれについては僕は人間の精神による自己認識であると解します。つまり人間の精神による自己認識として発生する観念ideaは表象像imagoであると解します。したがって,人間による自己認識は,すべて混乱したものであるというのが僕の結論になります。つまり,自己原因causa suiといわれるときの自己は,僕たちが一般的に認識しているような自己とは,単に語句として一致しているだけであり,実情には相当の差異があると考えます。
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小石のように&第五部定理二四の意味

2017-05-15 19:02:25 | 歌・小説
 「海と宝石」と僕の精神のうちで結びついている楽曲があります。それが「小石のように」です。実際にふたつの曲に関連があるわけではありません。ただ石という語に僕が連想を与えられただけです。
                                   
 「海と宝石」では雛のカモメが石を咥えて飛んでいきます。カモメが咥えるのですから小石に違いないでしょう。そのままカモメは海に流れ着く川を上流へと飛んでいき,山まで辿り着いて小石をぽとりと落とします。すると「小石のように」が始まります。

     山をくだる流れにのせて
     まだ見ぬ景色あこがれ焦がれ
     転がりだす石は16才
     流れはおもい次第


 この石は川を下って流れていきます。

     川はいつか幅も広がり
     暗く深く小石をけずる
     石は砂に砂はよどみに
     いまやだれにも見えない


 石は砂になってしまっても,何とか海まで辿り着くでしょう。そして流れ始めた山のことを思い出します。

     砂は海に海は大空に
     そしていつかあの山へ


 砂になってしまった石は,カモメに咥えられて大空を渡って再び山に戻ります。そこで再びカモメは石を落とし,石はまた山から川を下り出すでしょう。このようにして,「海と宝石」と「小石のように」は無限に連鎖していくことになるのです。

 第五部定理二四は,単に個物をより多く認識するのに比例して神をより多く認識するQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusといわれています。ですが実際はこの認識は第三種の認識cognitio tertii generisを意味します。つまりある人間の精神mens humanaが第三種の認識によって個物を多く認識すれば,その分だけその人間の精神は神をより多く認識するという意味です。なお,第三種の認識はそれ自体が十全な認識なので,ここでいわれている神の認識もまた当然ながら十全な認識になります。現実的に存在する個物をより多く表象するimaginariことが神を認識するということではないという点には注意が必要でしょう。
 この定理Propositioからいくつかのことが理解できます。まず第一に,スピノザは第三種の認識で個物を認識することを神を認識することと等置しているということです。個物を多く認識するほど神を多く認識するのですから,これはそれ自体で明らかでしょう。したがって,人間の精神による第三種の認識での個物の認識は,単に個物の認識であるというより,神の認識であると説明されなければなりません。つまり,現実的に存在する人間の精神が思惟の属性の個物であるということに注意するなら,人間が自分の精神について第三種の認識で何かを認識することは,単に自分の精神を認識しているというのではなく,神を認識しているのだと説明されなければなりません。このゆえに僕はこれは自己認識であるというより,神の認識であると解するのです。
 ただ,もしもこうした認識が,現実的に存在する人間にとって,自分の精神が対象objectum,subjectumとなった場合にのみ特有に生じる思惟作用であるとしたなら,確かにそれは神の認識ではあっても自己認識でもあるといわなければならないでしょう。ですが第五部定理二四の存在は,それを否定しているといえます。なぜなら,もしも現実的に存在する人間による第三種の認識が,自分の精神が観念の対象になった場合にのみ固有に生じる思惟作用であると仮定するなら,第五部定理二四は単に論理的に正しいということを意味するだけで,現実的には無意味になってしまうからです。逆にいうなら,人間の精神が自分の精神以外の個物も第三種の認識で認識し得るから,このことが主張されているのです。
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ヴィクトリアマイル&第五部定理二四の認識の種類

2017-05-14 19:15:13 | 中央競馬
 第12回ヴィクトリアマイル
 よく逃げているという馬が不在でしたのでどの馬が先手を奪うかがまず注目されましたが,スプリント路線で結果を残していたソルヴェイグの逃げに。追い上げてきたリーサルウェポンが2番手,以下,アスカビレン,レッツゴードンキ,スマートレイアー,クリノラホール,ジュールポレール,ミッキークイーン,クイーンズリング,アットザシーサイド,デンコウアンジュ,アドマイヤリードという隊列に。ただ,1頭1頭の間隔はほとんどなく,これらより後ろの馬も含めてほぼ一団でのレース。前半の800mは47秒9の超スローペース。
 直線に入る手前からソルヴェイグが徐々に外に出てきたので,内もがらりと開く形。ソルヴェイグの内に入ったのがスマートレイアーでさらにその内からクイーンズリング。さらに直線の半ばではスマートレイアーとソルヴェイグの間をアドマイヤリードが突いてきて,ソルヴェイグの外からジュールポレール。そして大外を回ったのがデンコウアンジュ。ペースの関係からどの馬も余力を残していたので大激戦になりましたが,やや詰まっていたのも幸いして最後に脚を使うことになったアドマイヤリードが抜け出して優勝。大外のデンコウアンジュが1馬身4分の1差で2着。その内にいたジュールポレールがクビ差で3着。内から2頭目のスマートレイアーがアタマ差の4着で逃げたソルヴェイグがクビ差の5着でした。
 優勝したアドマイヤリードは今年に入って1000万と1600万を連勝。前哨戦の阪神牝馬ステークスは2着でここに出走。重賞初制覇を大レースで達成しました。昨春のクラシックに乗った馬ですが,今年に入って本格化してきたとみていいでしょう。今日のレースは再戦すればまた結果も変わるであろう内容だったと思いますが,現役の牝馬の中で上位の能力をもつグループの中に加わっているのは間違いないところだと思います。父はステイゴールド
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は川崎記念以来の大レース制覇。ヴィクトリアマイルは初勝利。管理している須貝尚介調教師は一昨年の天皇賞(春)以来の大レース制覇。ヴィクトリアマイルは初勝利。

 延長の属性の三様態についてはスピノザは明示していますが,思惟の属性Cogitationis attributumについては間接無限様態が何であるか示されていません。間接無限様態を特殊的事物res particularisのうちに含めるべきか否かということは,僕が示した第二部定義七や岩波文庫版の116ページの第二部自然学②補助定理七備考のほかに,第一部定理二八をどのようにスピノザが論証しているのかということも検討材料になると僕は考えています。ただ,この定理Propositioは一般に個別的事物res singularisが存在existentiaと作用に決定される様式を示しています。つまり延長の属性Extensionis attributumの個別的事物にも妥当しますが思惟の属性の個別的事物すなわち個別的事物の観念ideaにも妥当しなければなりません。ところが思惟の属性の間接無限様態が何であるかが分からないので,十分に検討することができません。そして今は,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,自分の精神の永遠性aeternitasを認識するということを考察の課題としていますから,その課題との関連性ももっと薄くなります。なのでこのことはここまでとし,現状の考察の方へ回帰します。
 現実的に存在する人間の精神が,現実的に存在する個物といえる自分の精神について何かを認識することが,自己を認識するということではなく神Deusを認識するのだということを,第五部定理二四に訴求して示すためにはある条件が必要です。それは,人間の精神による自分の精神の永遠性の認識は,一般的認識ではなく個別的認識である,いい換えれば第二種の認識cognitio secundi generisではなく第三種の認識cognitio tertii generisであるということになっているのですから,第五部定理二四で示されている個物の認識もまた,第三種の認識でなければならないということです。
 このことは,第五部定理二三備考において,明らかに第三種の認識が言及されていると考えられ,その直後に第五部定理二四が示されているという,定理Propositio,備考Scholium,定理という配置の意図からして,妥当な解釈であるといえます。ですがそれだけではありません。スピノザは次の第五部定理二五で,精神の最高の徳summaque virtusがものを第三種の認識で認識することだといっています。そしてその論証Demonstratioにおいて,第五部定理二四を援用し,そこで示されている認識を第三種の認識と等置しているからです。
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第四部定理六三&個別的事物と特殊的事物

2017-05-13 19:19:15 | 哲学
 第四部定理六三系は,一般的な意味において,僕たちが理性ratioから生じる欲望cupiditasによって直接的に善bonumに就き,間接的に悪malumを逃れるということを示しています。これは系Corollariumなので,定理Propositioから導かれる筈なのですが,第四部定理六三というのはむしろ個別の事象について言及しているように思われます。スピノザには『エチカ』に定理や系を示していくにあたり,配置の意図があったものと思われますので,この部分はやや珍しい特徴をもっているといえるかもしれません。
                                     
 「恐怖に導かれて,悪を避けるために善をなす者は,理性に導かれていない」。
 証明Demonstratioは簡単です。第三部諸感情の定義一三により,不安metusは悲しみtristitiaです。第三部定理五九により,精神の能動actio Mentisと関連する悲しみは存在しません。一方で理性は精神の能動です。よって不安から生じる欲望によって何かをなすなら,その人は理性によって導かれていることにはなりません。ただ行動において,理性に導かれる人と一致する場合があるだけです。
 スピノザはアルベルトAlbert Burghのローマカトリックへの信仰fidesの理由は地獄への不安とみなしていました。しかし地獄に不安を感じるがゆえに,アルベルトは悪を避けるための善をなすかもしれません。しかしそれはアルベルトの理性に由来する行為ではありません。ただ,もしも宗教religioが,悪を避け善をなすように強いる不安を信者に与えるならば,その限りにおいて宗教は有益であるとスピノザはいうでしょう。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,神学と哲学を峻別しつつ,それでも宗教は有用であるとスピノザがみなすのは,こうした哲学的規準に依拠しているといえます。
 そしてこのように解すれば,『神学・政治論』で述べられている,人間は理性に従うことによって敬虔pietasであるということができるという主張の哲学的規準が,第四部定理六三系には含まれているとみることができるのではないでしょうか。

 現在の考察との関連で第五部定理二四に訴求する場合,考慮しておかなければならないことが含まれます。ですがこの定理Propositioは過去に考察した事柄と若干の関係を有していると思われますので,また現状の課題からは外れてしまうのですが,そちらを先に述べておきます。
 『エチカ』のテクストには「ふたつの個物」が表出しています。第五部定理二四で示されているのはそのうち個別的事物res singularesの方です。そしてスピノザはこの定理の論証Demonstratioは,第一部定理二五系から明白であるという以上のことは何もいっていません。第一部定理二五系で示されているのは特殊的事物Res particularesの方です。なのでこれでみれば,スピノザは個別的事物と特殊的事物は完全に同じ意味だと解しているように思われるのです。いい換えればそれらに同一の訳を与える正当性のひとつが,ここに示されていると考えることができるようになっているのです。
 もちろん『概念と個別性』で示されているように,特殊的事物とは間接無限様態と個別的事物の両方を意味するのだと解しても,このスピノザの証明が成立することは僕も認めます。個別的事物が特殊的事物の一種類であるなら,特殊的事物に妥当することは個別的事物にも妥当しなければならないからです。ただスピノザは特殊的事物の何たるかについて『エチカ』で明言しているわけではありません。単に第一部定理二五系で,神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturだといっているだけなのです。したがって,間接無限様態について何らかの事柄を論証するために援用されることがない特殊的事物について,個別的事物について論証するためには援用されているということに鑑みれば,やはり特殊的事物と個別的事物はを,スピノザは同一のものとみていると解するのが妥当なのではないかと僕は思います。
 間接無限様態を個物とみなす見方は,『概念と個別性』だけでなく,『スピノザ「共通概念」試論』や『個と無限』とりわけその中の「「エチカ」第一部のふたつの因果性がめざすもの」にもみられます。この主張が妥当性を有するためには,第二部定義七や岩波文庫版116ページの第二部自然学②補助定理七備考の方が重要だと僕は考えます。
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女流王位戦&神の認識と解する理由

2017-05-12 19:38:46 | 将棋
 小樽で指された第28期女流王位戦五番勝負第二局。
 伊藤沙恵女流二段の先手。後手の里見香奈女流王位が三間飛車に振ると先手も向飛車に構えて相振飛車に。序盤で先手が歩を打って3筋を凹ませ,先手は金を繰り出してその歩を取りましたが,この影響で玉が薄くなりましたので,戦いに入っても後手がリードしていたのではないかと思います。伊藤二段は受けに回って強みを発揮する将棋で,本局も入玉を狙いにいく展開に進みました。
                                     
 ☖3一香の王手に3四にいた玉が2三に入った局面。ここでは☖3四角と打って4三の金を取りにいけば,と金も外す展開になったかもしれませんので,そう指すべきだったかもしれません。実戦は☖3二金☗同と☖4三龍の手順で金を取りました。
 ☗3三金と打つのはおそらくこの一手。後手は☖6七角と王手して☗2二玉☖2三金☗1一玉と進めて☖3三金とその金を取りました。ただここで☗2二とと寄ったのがいい手で,寄せるのが難しくなりました。
 ☖3二金と引いてと金を外しにいきましたが☗2六香で状況はあまり変わりません。ここから☖2四歩☗同香☖1三龍☗1二金☖同角成☗同と☖2四龍とその香車も取ったのですが☗1六桂と龍に当てられ☖2三龍に☗2四桂打とされ,今度は完全に寄せられなくなってしまいました。
                                     
 粘った伊藤二段が勝って1勝1敗。第三局は31日です。

 第二部定理一〇系には様態的変状という語句が用いられています。ですから現実的に存在する人間が自分の精神mensについて個別的にこの系Corollariumでいわれていることを認識したとき,その認識cognitioが,思惟の属性Cogitationis attributumが変状した自分の精神の認識であるというより,自分の精神という様態的変状modificatioに様態化した思惟の属性の認識であると僕が解する理由はお分かりいただけると思います。
 第二部定理一一系の場合に同じような仕方で説明すると,現実的に存在する人間が自分の精神について永遠aeterunusであると認識すること,いわば自分の精神が永遠であることを発見することが,神の無限知性infiniti intellectus Deiのうちに自分の精神を発見するならばこれは自己認識で,自分の精神についてそれが神の無限知性の一部partemに含まれているのだと発見するならこれは神の認識であると僕は解します。そして現実的に存在する人間が自分の精神の永遠性aeternitasを認識するありようは,その人間によって概念された無限知性のうちに自分の精神が含まれるという仕方で説明されるべきものではなく,自分の精神について,それが無限知性の一部を構成しているということを直接的に発見するという仕方で説明されるべきものであると僕は考えるのです。なのでこの系が自分の精神について個別的に認識されるという場合も,それは自己認識ではなくて神の認識であると解するべきだと僕は考えます。
 僕が考えていることが十分に伝えられているかどうか不安ではありますが,僕は今のところはこのことをこれ以外の仕方では説明することができません。ただ,現実的に存在する人間の精神が個物res singularisであるということは疑い得ません。そして第三種の認識cognitio tertii generisによって,とくに自分の精神に限らず,個物を十全に認識するということは,単に個物を認識しているのではなく,神を認識していることであるということは,スピノザ自身が認めていると僕は考えます。なぜなら,第五部定理二四で,僕たちは個物をより多く認識するにしたがって,それだけ神を多く認識するQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusのだといわれているからです。これは個物の認識が神の認識と等置されているからにほかなりません。そして僕たちの精神も個物なら,その認識は神の認識であることになるでしょう。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&峻別方法

2017-05-11 20:40:57 | 地方競馬
 第31回東京プリンセス賞。グラッブユアダイヤは右の後ろ脚の怪我で出走取消となって12頭。
 アップトゥユーがすんなりとハナへ。向正面に入るあたりで2馬身ほどのリードに。2番手にはピンクドッグウッド。また2馬身差でイントゥゾーンが続き,以下,アンジュジョリー,グラスサファイヤ,ステップオブダンスという順に残りのすべての馬が集団を形成。逃げ馬と2番手,2番手と3番手の差も3コーナーにかけて詰まっていったので,およそ8馬身くらいの中に全部の馬が収まることになりました。最初の800mは52秒0の超スローペース。
 3コーナーを回るとアップトゥユーがスパート。ピンクドッグウッド,イントゥゾーン,グラスサファイヤの3頭が雁行で追いました。直線に入るとピンクドッグウッドがまず脱落。その内を突いて上がってきたのがアンジュジョリーで,次に脱落したグラスサファイヤの外から追ってきたのがステップオブダンス。さらにその外からガロもこの争いに加わることに。ピンクドッグウッドの前に出てからイントゥゾーンのすぐ横まで外目に持ち出されたアンジュジョリーがそこから一気に伸び,フィニッシュ直前で逃げ粘るアップトゥユーを差し切って優勝。アタマ差の2着にアップトゥユー。こちらもフィニッシュ直前でイントゥゾーンを差したステップオブダンスが1馬身半差で3着。イントゥゾーンはアタマ差の4着。
 優勝したアンジュジョリーは北海道デビュー。昨年11月に浦和に転入すると連勝。その後は南関東重賞ばかりを使って3着,6着,5着,6着と結果が出ていませんでしたが,前走の船橋でのオープンは勝ってここに参戦。これまでの結果から勝つというシーンまでは想定していませんでした。距離が伸びてスローペースでの瞬発力勝負になったのが味方したのではないかと推測します。ずっと内を回って直線の半ばで外に持ち出した騎乗も勝利に大きく貢献したのではないでしょうか。母の父はアグネスタキオン。Ange Joliはフランス語でかわいい天使。
 騎乗した大井の笹川翼騎手はハイセイコー記念以来の南関東重賞4勝目。東京プリンセス賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師も東京プリンセス賞は初勝利。

 第二部定理一〇系は,人間の本性essentiaが神Deusの属性attributumの様態的変状modificatioで構成されていると書かれています。この様態的変状modificatioという語句は,様態的変状に様態化するmodificatum est modificationeといういわれ方をします。たとえば第一部定理二二がそれに該当します。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,様態的変状に様態化するというのは様態modusに変状するというのと同じ意味であるとしています。ですが僕はこのふたつのいい回しは,事態としては同じことを指示しているにしても,ニュアンスには違いがあると考えているということをかつて説明しました。端的にいえばそれは,様態に変状するといわれるなら,それは変状した様態に主眼が置かれているのに対し,様態的変状に様態化したといわれる場合には,様態化した神ないしは神の属性に主眼が置かれているということでした。このニュアンスの相違は,僕が何を自己の認識cognitioとみなし,何を神の認識とみなすのかということの峻別を説明するのに役立つと思います。
                                     
 もし現実的に存在する人間が自分の精神mensについて,それは神の属性が変状した様態であると認識するcognoscereなら,それは自己の認識であろうと僕は判断します。しかし同じように自分の精神について,それは思惟の属性Cogitationis attributumが様態的変状に様態化したものであると認識したなら,この認識は自己の認識というより神の認識であると僕は判断します。これは前者の場合には,思惟の属性が変状した現実的に存在する自分の精神という様態を認識しているのに対し,後者は,現実的に存在する自分の精神という様態的変状に様態化した神の属性を認識していると解せるからです。
 第二部定理一〇系とか第二部定理一一系で一般的にいわれていることを,自分の精神について個別的なものとして第三種の認識cognitio tertii generisで認識するとき,自分の精神が永遠aeterunusであるという認識が出てくるのだと僕は考えています。そしてこの認識は,思惟の属性が変状した自分の精神についての認識ではなく,自分の精神という様態的変状に様態化した思惟の属性の認識であると僕はみます。このゆえにこの第三種の認識は,自分の精神という現実的に存在する個物res singularisの認識ではなく,思惟の属性によって説明される神の認識であると解するのです。
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羽田盃&自己認識と神の認識

2017-05-10 20:44:59 | 地方競馬
 第62回羽田盃
 ティケーグラスがいつものように控えました。逃げたいと思っていた馬が不在だったようで,発走後はキャプテンキング,ヒガシウィルウィン,イケノアサ,ミサイルマンの4頭が横並び。1コーナーのコーナーワークで最内のキャプテンキングが主導権を奪う形となり,ヒガシウィルウィンが単独の2番手に。イケノアサとミサイルマンは3番手を併走。さらにクラキングス,キングガンズラングと続いてここまでが先行集団。1馬身半差の中団はサヴァルジャン,パッショノン,キャンドルグラス,カンムル,ホワイトソニックの隊列。ここからまた差が大きく開いて3頭が続きました。最初の800mは51秒8の超スローペース。
 3コーナーを回るとヒガシウィルウィンが手を動かしながらキャプテンキングに並び掛けていきました。イケノアサは後退し始め,ミサイルマンもコーナーの出口では一杯。内を回ってヒガシウィルウィンとミサイルマンの間に進路を取ったクラキングスが3番手に。しかし前の2頭はここから3番手以下を離していき優勝争いは2頭のマッチレース。速めに手が動いていたヒガシウィルウィンも最後までよく食い下がりましたが,キャプテンキングはフィニッシュまで抜かせず逃げ切って優勝。ヒガシウィルウィンは半馬身差で2着。5馬身差の3着争いは大接戦でしたが,最初に3番手に上がっていたクラキングスの外から脚を伸ばしたキャンドルグラス。クラキングスの内を突いたホワイトソニックがハナ差の4着でクラキングスがクビ差で5着。キャンドルグラスの外を伸びたキングガンズラングがクビ差で6着。
 優勝したキャプテンキングはJRAで2勝。南関東のクラシックを目指して大井に転入。その初戦で南関東重賞制覇。前走のオープンでエピカリスから約3馬身差の5着。実績最上位の2着馬が北海道時代にエピカリスに大差をつけられたことからすると,能力的には上とみることができ,その能力を十全に発揮できれば勝てるのではないかとみていました。末脚を武器に戦っていた馬だったので,位置取りについてはやや不安があったのですが,まさか逃げてレースができるとは思いませんでした。2着馬が実績馬ですから結果は能力通りといえるでしょう。ただ,僕は距離延長には不安がある馬と考えていますので,東京ダービーは能力面からは勝機があるでしょうが,絶対視はできないと思っています。母の全兄に2007年のアンタレスステークスとプロキオンステークス,2008年の根岸ステークスを勝ったワイルドワンダー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は平和賞以来の南関東重賞制覇。羽田盃は初勝利。管理することになった大井の的場直之調教師は南関東重賞2勝目で羽田盃は初勝利。

 暫定的とはいえ難題は解決をみたので本題へ戻ります。
 現実的に存在する個物res singularisは時間tempusによって把握されなければなりません。そしてそれ自体で永遠aeterunusとして把握できる思惟の様態cogitandi modiとしては無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusがあります。つまり,現実的に存在する個物の観念ideaは無限知性のうちに含まれる限りにおいては永遠であることになります。難題の解決策の中で述べたように,無限知性は存在existentiaだけが永遠であるわけではなく,その本性essentiaも形相formaも永遠でなければなりません。そして無限知性をひとつの観念としてみればその「中に起こること」は何もありません。ですから無限知性の中に現実的に存在する個物の観念があるなら,いい換えれば無限知性のうちで現実的に存在する個物の本性が観念として表現されているなら,この観念もまた本性および形相は永遠に変化しないからです。第五部定理二二は確かにこのことを主張していると僕は考えます。
                                     
 すると,現実的にある人間が存在していて,その人間が自分の精神mensについてそれを永遠であると第三種の認識cognitio tertii generisによって認識することは,単に自分の精神が永遠であると認識しているのではなく,現実的に存在している自分の精神が神Deusの無限知性の一部であるということを認識しているのだといい換えることができます。つまり第二部定理一一系第二種の認識cognitio secundi generisによって一般的に示されている事柄を,現実的に存在している自分の精神について個別的な事象として第三種の認識で認識していることになるでしょう。僕はこの認識について,それを自己認識であるとは解さないのです。ではこれは何についての認識であると解するのかといえば,自己についての認識ではなく神についての認識であると解するのです。
 スピノザは第二部定理一〇系で,人間の本性は神の属性attributumのある様態的変状modificatioから構成されているといっています。これもまた第二種の認識による論理的帰結であって,同時に第二部定理一一系を論証するためにも役立つでしょう。これが第三種の認識で自分の精神について個別に認識されると,やはり同じことになります。というのも第一部定理一九により,神の属性Dei attributaは永遠でなければならないからです。これも神の認識と僕は解します。
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トキオリアリティー&暫定的結論

2017-05-09 19:10:10 | 血統
 クイーンエリザベスⅡ世カップを勝ち,海外で初の大レース制覇を達成したネオリアリズムの母は1994年にアメリカで産まれたトキオリアリティーという馬です。トキオリアリティーからみて11代目の母がフロリースカップの4代母にあたり,ファミリーナンバー3-lです。
                                     
 トキオリアリティーは競走馬として輸入され,短距離を中心にJRAで3勝をあげました。1998年5月に準オープンで3着のレースを最後に引退して繁殖入り。
 引退時期の関係から最初の産駒が誕生したのは2000年。2頭の産駒を誕生させた後,2001年に交配されたのがエルコンドルパサー。2002年に産まれた産駒がアイルラヴァゲイン。2004年にデビューした2歳の当初からオープンで活躍し,2007年にオーシャンステークスを制しました。その後も長く現役を続け,芝とダートでオープンを1勝ずつしています。
 その後も毎年産駒を誕生させ,2007年にディープインパクトと初配合。この配合で2008年に産まれたのがリアルインパクト。この馬も2010年にデビューするとすぐにオープンで活躍。2011年には3歳馬の身で挑戦した安田記念を勝ちました。その後は低迷しましたが2013年と2014年に阪神カップを連覇。2015年の春にオーストラリアに遠征し,ジョージライダーステークスを制しています。
 2010年だけは産駒がなく,この年に配合されたのがネオユニヴァース。そして翌年に誕生したのがネオリアリズムになります。
 リアルインパクトはすでに種牡馬になっていますし,ネオリアリズムにも種牡馬としての需要はあるでしょう。また,多くの産駒の中には牝馬もいますから,牝系としても発展していく可能性があります。

 現実的に存在する個物res singularisYが原因causaとなって現実的に存在する個物Xが発生することは,無限知性intellectus infinitusをひとつの観念ideaとしてみた場合に,その観念の対象ideatumの「中に起こること」ではありません。よって無限知性がひとつの観念とみられる場合には,第二部定理九系によって,無限知性はそのことを認識しません。この点において第五部定理二三備考でいわれていること,すなわちある知性がものの存在existentiaを時間tempusによって決定するdeterminare力potentiaを有するのは,その知性もまた現実的に存在している,いい換えれば持続している場合だけであるということが,無限知性に対して合致していると解します。要するに,この意味において,永遠aeterunusである無限知性は,現実的に存在する個物を時間によって決定する力を有するとはいえないと解します。
 一方,現実的に存在する個物の本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念は無限知性のうちに存在します。このとき,個物の本性にそれが持続するdurareものであるということが含まれているなら,そのこともまた永遠の相の下に表現されていなければなりません。そしてそれは実際に表現されているのであり,しかし第五部定理二三備考でいわれていることには反しない,つまりそれは個物の存在を時間によって決定する力には含まれないとしておきます。いわばこれを暫定的な結論とするということです。実際,それが持続するものであるという本性は個物一般の本性ですから,それが特定の現実的に存在する個物にだけ妥当するものではありません。したがってこうした本性が永遠の相の下に表現されているのだとしても,それはある固有の個物の存在を時間によって決定しているということにはならないと解せると思うからです。
 ここでは,現実的に存在する個物Xが現実的に存在することを開始する場合だけを例示しました。ですが現実的に存在する個物Xがその現実的存在を停止することの観念も,第二部定理九の様式で説明されなければなりません。これは第三部定理四から明白です。ですからこちらの場合で考えても,無限知性は現実的に存在する個物がその現実的存在を停止することを認識しないということになり,時間によって決定できないことになります。
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日本選手権競輪&無限知性の対象

2017-05-08 19:07:09 | 競輪
 京王閣競輪場で行われた昨日の第71回日本選手権競輪の決勝。並びは平原‐武田の関東,深谷‐浅井の中部,三谷‐桑原の西日本,山田‐園田の九州で守沢は単騎。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。3番手に平原,5番手に守沢,6番手に三谷,8番手に山田で周回。残り3周のバックから山田が上昇。三谷がこのラインに続きました。残り2周のホームに入ると山田が深谷を叩き,深谷は8番手まで下げるとすぐさま反撃。バックで山田を叩いて打鐘となり,深谷の先行に。山田が内を開けて走ったのでコーナーで三谷がそこを突いて上昇。ホームで浅井と番手戦になるかに見えましたが,競りは避けて3番手を確保しました。後方になった平原も上がっていきましたが,5番手で山田と併走のような形になり,山田に外に振られて苦しくなりました。前の隊列が変わらずに直線を迎えたので浅井に絶好の展開と思えましたが,深谷の発進も早かったため脚が残っていなかったのでしょうか,その後ろから突き抜けた三谷が優勝。マークの桑原が1車身差の2着に続いて西日本ラインのワンツー。浅井は4分の1車輪差の3着まで。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は2014年の優秀新人選手賞を受賞していますが,ビッグはおろか記念競輪の優勝もなく,グレードレース初優勝をダービーで達成という珍しい記録を作りました。何といっても打鐘中に3番手を確保することができ,結果的に平原を後ろに位置させることができたのが大きかったのだと思います。101期の新鋭選手ではありますが,年齢でいえばこのメンバーだと深谷よりふたつ上の29歳ですから,選手としてはもう勝負所にさしかかっています。ダービーを優勝しただけで終るということはさすがにないと思いますが,早期に記念競輪でも優勝しておきたいところではないでしょうか。

 現実的に存在する個物Xの観念ideaも現実的に存在する個物Yの観念も,無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちにあると僕は考えます。第五部定理二二のいい方に換えれば,それらの観念が無限知性のうちで永遠の相の下に表現されていると考えます。そこで仮定に戻り,現実的に存在する個物Yが原因となって現実的に存在する個物Xが起成するとします。
                                     
 スピノザの哲学では知性は観念の総体なので,無限知性も観念の集合であることは間違いないでしょう。無限知性をひとつの観念としてみた場合,その観念の対象を何というべきかは僕には分かりません。ただ,現実的に存在する個物Yから現実的に存在する個物Xが発生するということが,無限知性を観念としてみた場合に,その観念の対象の「中に起こること」であるか否かを問うなら,それは「中に起こること」ではないと僕は考えます。なぜなら,ある観念の対象の「中に起こること」とは,その対象の本性natura,essentiaなり形相formaなりに変化を生じさせ得ることと僕は解するからです。この場合,観念の対象とその観念は同一個体なので,観念の対象に本性や形相の変化が生じ得るなら,観念の本性および形相にも変化が生じ得るといわなければなりません。ところが無限知性は思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。したがって第一部定理二一により永遠かつ無限です。しかしもしもその本性や形相に何らかの変化が生じ得ると概念するconcipereことができるものが永遠aeterunusであったり無限infinitumであったりすることはできません。よって,単に個物Xが現実的に存在するようになるということが無限知性の対象の「中に起こること」ではないというだけでなく,むしろ無限知性の対象の中には何も起こらないと解さなければならないと僕は考えるのです。したがって第二部定理九系に依拠するなら,この意味においても無限知性が現実的に存在する個物を認識することはないといわなければなりません。したがって,現実的に存在する個物Xの本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念が無限知性のうちにはあるのだけれども,それはたとえば僕たちの身体corpusのうちに起こることの観念が僕たちの精神mensのうちにあるというのとは,構造的に同じだけで現象としては異なっていることになります。
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NHKマイルカップ&第二部定理九系の意味

2017-05-07 19:35:11 | 中央競馬
 第22回NHKマイルカップ
 アエロリットが好発。ナイトバナレットは控えました。先手を奪ったのはボンセルヴィーソ。2番手にモンドキャンノ,3番手にディバインコードが続き,プラチナヴォイス,トラスト,アエロリットの3頭が好位集団を形成。中団にカラクレナイ,タイムトリップ,リエノテソーロ,ガンサリュートの4頭という隊列に。前半の800mは46秒1のミドルペース。馬場状態がよく,前につけた馬もあまり止まらないので,このペースでは後方勢は苦しかったようです。
 3コーナー手前から徐々に漸進してきたアエロリットがかなり外を回って直線の入口では逃げるボンセルヴィーソとほぼ並ぶような位置取りに。そのまま馬体を併せにはいかず,ボンセルヴィーソを捕えて早めに先頭へ。4コーナーを回る時点では直前にいたガンサリュートの外に持ち出したリエノテソーロが追ってきて,一時的には差し切るかの勢いでしたが,坂を上り切るとそれ以上は差が詰まらなくなり,優勝はアエロリット。リエノテソーロが1馬身半差で2着。後方から追い上げてきたレッドアンシェルの追撃をクビ差だけ凌いだボンセルヴィーソが2馬身半差で3着。
 優勝したアエロリットは重賞初制覇での大レース勝利。このレースはあまり能力差が大きくないメンバー構成で,レースの流れにうまく乗ることができた馬が勝つだろうくらいのことしか事前に予想できませんでした。そういう意味では好発を決めることができたのが大きかったのではないでしょうか。新馬を勝っただけの1勝馬でしたが,重賞2着が2度あったので,勝つことができる馬の1頭とはみていましたが,今年の3歳牝馬の中でトップと断定できる馬ではありませんから,いいタイムでの勝利でも,あまり過大に評価はしない方がいいのではないかと思います。とはいえ上位クラスので活躍は可能でしょう。父は第6回を制したクロフネで父仔制覇。母の父はネオユニヴァース。3代母がステラマドリッドで従兄に2016年のJRA賞の最優秀短距離馬で第19回の覇者のミッキーアイル。Aerolitheはフランス語で隕石。
 騎乗した横山典弘騎手は一昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。第4回も制しているので2年ぶりのNHKマイルカップ3勝目。管理している菊沢隆徳調教師は厩舎開業から約6年2ヶ月で大レース初勝利。

 第二部定理九系で,各々の観念の個々の対象の中に起こるすべてのことといわれるとき,「中に起こること」というのを,その観念の対象の本性natura,essentiaないし形相formaに変化をもたらし得ることと僕は考えています。これをもう少し具体的に説明します。
                                     
 ここでいう個々の対象objectumとして,今は個物res singularisを想定します。第二部定義七が示しているように,複数の個物によって組織される単一の個物が存在します。このとき,組織を構成している複数の個物は,それらによって組織を構成される単一の個物の部分を構成すると解します。このとき,部分の中に何かが起こっても,全体としての単一の個物の中には何も起こらないという場合が生じます。いい換えれば,部分の本性なり形相なりが変化しても,全体の本性あるいは形相には何の変化ももたらされないという場合があります。そういう場合があるということは,たとえば岩波文庫版114ページの第二部自然学②補助定理四などから明白だといえます。ですからこのようなことが生じたとしても,それは第二部定理九系のいっていることの範囲の外にあると僕は解します。いい換えれば,それは各々の観念の対象の中に起こることではありませんから,その観念はその対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるわけではありません。
 一方,各々の観念の対象の中に何かが起こるのだと仮定した場合には,その起こることの観念はその対象の観念を有する限りで神のうちにあるのであり,これが第二部定理九系が意味しているところだと僕は解します。他面からいえば,その対象の観念を有さないと神がみられる場合には,中に起こることの観念は神のうちにあるとはいえません。かつてこれについてはこの系の消極的意味として示しました。
 ところで,もしも観念の対象に本性なり形相なりの変化が生じるのであれば,観念そのものにも同じだけの変化が生じなければなりません。これは観念の対象とその観念は同一個体であることに注意すれば第二部定理七から明白であるといえます。このとき,現実的に存在する個物Yから現実的に存在する個物Xが発生するということは,どういう意味で中に起こることなのかが問題になります。
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農林水産大臣賞典かしわ記念&現象的相違

2017-05-06 19:23:20 | 地方競馬
 昨日の第29回かしわ記念
 コパノリッキーはジャンプするような発馬。先手を奪ったのはモーニンで向正面では2馬身以上のリードに。単独の2番手にはブラゾンドゥリス。1馬身半くらいでベストウォーリアが3番手。また1馬身半ほどの差でインカンテーションとリッカルド。さらに2馬身離れてコパノリッキーが追走という隊列。前半の800mは48秒9でややハイペース。
 3コーナーを回ってブラゾンドゥリスがモーニンとの差を詰め始めその外にベストウォーリアでインカンテーションは内から追撃。遅れ始めたリッカルドの外からコパノリッキーも追い上げてきました。直線に入ると内からモーニン,インカンテーション,ブラゾンドゥリス,ベストウォーリア,コパノリッキーという並びに。直線の半ばでブラゾンドゥリスが少しだけ外によれたのでベストウォーリアは瞬間的に走りにくくなったかもしれません。それらと対照的に大外を真直ぐに伸びてきたコパノリッキーが内の4頭をすべて捕えて優勝。コースロスなく立ち回れたインカンテーションが2馬身差で2着。能力からすると不甲斐ない成績が続いていたものの逃げることで力を発揮できたモーニンがクビ差の3着。
                                 
 優勝したコパノリッキー南部杯以来の勝利で大レース9勝目。第26回,28回に続き連覇でかしわ記念3勝目。南部杯以降は4戦して2度の5着が最高着順と結果をまったく残せていませんでしたが,このメンバーなら力量最上位は疑い得ず,優勝候補の筆頭とみていました。発馬が悪かったのはひやりとしましたし,逃げるつもりはなかったような騎乗にはみえたものの,あれほど後ろの位置になるとは想定していなかったのではないかと思います。それでも突き抜けられたのは能力の高さの証明ですが,こういうレースで勝つことができたのはこの距離だったからだとは思えます。もっと長い距離でここまで控えて差してくるというのは難しいのではないでしょうか。父はゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年の大阪杯,2005年の大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗した武豊騎手天皇賞(春)に続いての大レース制覇。第9回,28回に続いてかしわ記念は連覇で3勝目。管理している村山明調教師川崎記念以来の大レース制覇。第26回,28回に続いてかしわ記念は連覇で3勝目。

 無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusが現実的に存在する個物res singularisの観念ideaの起成原因causa efficiensではないということは,第二部定理九が示していることそのものであるといえます。ここでの仮定に照らし合わせていうなら,現実的に存在する個物Xの観念の起成原因は,現実的に存在する個物Yの観念という様態的変状modificatioに様態化した神Deusであるということが,この定理Propositioのうちに含まれているといえるからです。現実的に存在する個物Yの観念に様態化した神というのは,無限知性に様態化した神ではないということは明白でしょう。ですから無限知性のうちに現実的に存在する個物Xの十全な観念が含まれている,他面からいえば無限知性が現実的に存在する個物Xの観念を十全に認識するのであるとしても,その間に因果関係があるとはいえないのです。
 なぜこの点に注意しなければならないのかといえば,一般に現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにAの観念がある,あるいは発生するということは,この人間の精神がAを認識するという意味ですが,この場合には人間の精神はAの観念に対して起成原因なのです。人間の精神が十全な原因causa adaequataであるならその人間はAを十全に認識しますし,人間の精神が部分的原因causa inadaequata,causa partialisである場合にはその人間はAを混乱して認識します。そしてこれ以外には人間の精神が何かを認識することはあり得ません。
 ですから,無限知性のうちに現実的に存在する個物Xの観念があるということと,現実的に存在する人間の精神のうちにAの観念があるということは,知性と観念の関係を構造的にみるならば同じことをいっています。すなわち無限知性はXを認識しますし,人間の精神はAを認識します。ですがそれを動態的にないしはひとつの現象としてみた場合には,実は違ったことをいっているのです。こういう相違があるということに注意してください。そして,無限知性が現実的に存在する個物を認識するということを,僕たちが何かを認識するというのと同じようなイメージで把握しないようにしてください。
 さらにこのことは,第二部定理九とだけ関係するのではありません。続く第二部定理九系とも関係するのです。たぶんこちらの方が哲学的にはより重要であると思われます。
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日刊スポーツ賞東京湾カップ&無限連鎖

2017-05-05 19:26:09 | 地方競馬
 昨日の第31回東京湾カップ
 逃げなければ結果が出ないことが判明しつつあったサイバーエレキングがハナへ。2番手がグランウブロで3番手にマルヒロナッツオー。好位の内にソッサスブレイで外に向正面で上昇したカンムル。中団にリアルファイト,ホワイトソニック,スカイサーベル,クラトリガーの4頭が集団を形成しました。1コーナーを回るところからペースが急激に落ちましたが,全体的にはミドルペースからハイペースだったと思います。
 3コーナーを回るとマルヒロナッツオーが後退。インを回っていたソッサスブレイが3番手に上がり,中団馬群の最外にいたクラトリガーが勢いよく外を捲り上げてきました。直線に入ったところではサイバーエレキングが先頭でその外からグランウブロが追うという形でしたが,この2頭の外に出たソッサスブレイが競り合う2頭を交わすと悠々と抜け出し3馬身の差をつける快勝。大外を回ったクラトリガーが粘るサイバーエレキングをフィニッシュ直前で交わして2着。サイバーエレキングがクビ差の3着。
 優勝したソッサスブレイは北海道でデビューして2勝。昨年12月に船橋に転入すると3連勝。その後の2戦は7着,5着でしたが,このメンバー構成であれば力量は互角に近く,優勝候補の1頭でした。ただ,一線級とは力量差があるように思えますので,これより上位クラスの馬との戦いでは苦戦してしまうのではないかと思われます。メンバー的には順当といっていい範囲での決着だったのではないかと思うのですが,配当はずいぶんとつきました。母の父がスペシャルウィーク。祖母が1997年の東京3歳優駿牝馬と1998年の桜花賞を勝ったダイアモンドコア。母の半兄に2008年のハイセイコー記念,2009年の京浜盃羽田盃を勝ったナイキハイグレード。Sossusvleiはナビブ砂漠の観光名所。
 騎乗した大井の柏木健宏騎手はしらさぎ賞に続いての南関東重賞4勝目。東京湾カップは初勝利。管理している船橋の山本学調教師は南関東重賞3勝目で東京湾カップは初勝利。

 現実的に存在する個物res singularisは何であれ,それが存在し始めるために,すなわちその存在の持続duratioを開始するために,自身とは異なった現実的に存在する個物を外部に要します。ここからは前者を個物X,後者を個物Yとします。つまり現実的に存在する個物Yは,個物Xが現実的な存在を開始する原因であると仮定します。これは論理上の仮定ですので,現実的にそのように単純な実例が存在するかということは問わないでください。
                                     
 第一部公理四は,結果の認識は原因の認識を含んでいなければならないといっています。したがって,現実的に存在する個物Xの十全な観念は,現実的に存在する個物Yの観念を含んでいなければなりません。いい換えればそれに依存していなければなりません。このことは第二部定理九が直接的に意味しているといえるでしょう。
 僕はある知性AのうちにBの観念ideaがあることと,AがBを認識するというのは同じことであると解します。したがって,第二部定理九で示されている現実的に存在する個物の観念の無限連鎖が無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちに含まれていると解する限りで,それだけを特定して抽出した現実的に存在する個物Xの十全な観念が無限知性のうちに含まれるということを認めます。いい換えるなら無限知性が現実的に存在する個物Xを十全に認識するということを認めます。そして,僕の考えでいえば,これ以外の仕方で,現実的に存在するいかなる個物も,無限知性が認識するということを説明することは不可能です。スピノザが,現実的に存在する個物の十全な観念が神の観念idea Deiすなわち無限知性のうちにあるということは是認していると僕は解しますので,これは第二部定理九の無限連鎖が無限知性のうちに含まれるという意味だと解します。
 ただ,ここでまた気を付けなければいけないことが出てきます。このような意味において無限知性のうちに現実的に存在する個物Xの十全な観念は無限知性のうちにある,つまり無限知性は現実的に存在する個物Xを十全に認識するのですが,この認識に際しては因果関係はまったく含まれません。つまり無限知性が原因で,現実的に存在する個物Xの観念が結果であるわけではないのです。
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兵庫チャンピオンシップ&第一部定理八備考一

2017-05-04 19:26:36 | 地方競馬
 第18回兵庫チャンピオンシップ
 できれば逃げたかったであろうシゲルコングの出足が悪かったためにノーブルサターンが難なくハナへ。発走後は内のクイーンマンボと並んでいたナチュラリーが1周目の正面では単独の2番手。クイーンマンボは上昇してきたリゾネーターと並んで3番手。この後ろは少し離れてタガノディグオ,ナムラアイドルの順。この後ろはまた差が開き,圏外の追走に。ミドルペースだったように思います。
 向正面半ば過ぎで2番手のナチュラリーが脱落してクイーンマンボが2番手に。動いてきたタガノディグオが3番手。人気のリゾネーターはこのペースアップに対応することができず,前3頭の争いに。逃げたノーブルサターンは追っていたクイーンマンボの追撃は振り切ったものの,その外から伸びてきたタガノディグオには抵抗できず,差し切ったタガノディグオが優勝。4分の3馬身差でノーブルサターンが2着。クイーンマンボは3馬身差の3着。
 優勝したタガノディグオは重賞初勝利。デビュー戦の芝のレースを大敗して以降はダート1800mのレースだけを使って2勝,2着5回,残りの1回が3着ときわめて安定した成績。ここはリゾネーターが能力的には断然の筈ですが,経験が浅い騎手の騎乗や地方競馬の馬場やコースへの対応など不安な点も抱えていて,その不安が露呈するようなことになれば上位争いをした3頭のうちのどれかが勝つだろうというメンバー構成でした。必ずしもレベルが高かったとはいい得ない面もあると思いますので,どれくらいの活躍が可能かは今後の様子を見てから判断した方がいいのではないでしょうか。母の父がタニノギムレットで祖母の父がダンスインザダーク。Diguoは帝国の中国語での発音。
 騎乗した川島信二騎手は第13回以来5年ぶりの兵庫チャンピオンシップ2勝目。管理している宮徹調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。

 僕の解釈に難点があることを承知しておきながら放置しておくことは不誠実ですから,本題とは関係なくても,暫定的な解決策だけは講じておきます。
                                     
 ここでは個物の存在のふたつの場合を峻別して考えると前提してください。ある事物が一定の持続duratioのうちに存在することは,その事物が永遠aeterunusには存在しないということを意味します。したがって永遠が事物の存在に対する絶対的な肯定であるとすれば,持続とはその部分的な否定です。これはちょうど無限infinitumであることは存在の絶対的肯定で,有限finitumであるとはその部分的な否定であるということと同じです。スピノザは第一部定理八備考一でそういっています。
 「有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり,無限であるということはその絶対的肯定である」。
 したがって,事物あるいはその本性natura,essentiaが持続するとみられる場合には,その存在が部分的に否定されているのであり,事物あるいはその本性が永遠であるとみられるなら,その存在が絶対的に肯定されているということについては,スピノザは認めるものと僕は考えます。
 次に,僕は個物の本性には,その個物res singularisが持続するdurareものであるということは含まれていると考えています。ただ,このことは個物一般に適用される真理veritasです。真理であるからにはそれが事実として持続しているというものではなく,永遠から永遠にわたっての真理でなければなりません。これは個物の本性は永遠の真理であるといっているのと同じです。他面からいえば,個物の本性が変化することはないといっているのと同じです。事物の本性がAからBへと変化するのであれば,事物の形相formaもまたAからBへと変化するのでなければなりません。極端にいえば人間の本性が馬の本性に変化するなら人間の形相は馬の形相へ変化しなければなりません。これは不条理ですから,一般に事物の本性は永遠の真理でなければならないのです。よって個物の本性に持続するということ,いい換えれば存在の部分的否定が含まれていても,それ自体は永遠の真理です。なのでその観念ideaが,永遠である無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちに含まれてるとしても,そこには何の問題もないと僕は考えます。
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農林水産大臣賞典かきつばた記念&個物の本性の問題

2017-05-03 19:24:57 | 地方競馬
 第19回かきつばた記念
 ドリームキラリが内に逃げるような発馬。この影響でトウケイタイガーが前に。逃げたかったドリームキラリは鞭を入れて追ってきましたが,トウケイタイガーが内に入り込んだので直線の半ばで不利を受ける形で控えました。外から追ってきたタイニーダンサーが2番手で,ラブバレットが3番手。控えざるを得なかったドリームキラリは4番手をショコラブランと併走。その後ろにレーザーバレットとタムロミラクルが並びました。最初の600mが37秒1のミドルペース。
 3コーナー手前で2番手のタイニーダンサーは苦しくなって後退。自然とラブバレットが2番手に。中団から早めに外を回って動いたタムロミラクルがこの2頭に接近。直線に入ったところでもトウケイタイガーとラブバレットは雁行していましたが,ここからトウケイタイガーが追ってくる馬たちを引き離していき,4馬身の差をつけての逃げ切りで快勝。早めに動いたタムロミラクルが2着。3コーナーあたりでは手応えが怪しく思えたショコラブランが,直線で外に持ち出されるとよく伸びてクビ差の3着。
 優勝した兵庫のトウケイタイガーはJRAでデビュー。昨年の6月まで走って3勝。兵庫に転入すると3連勝の後,2着を挟んで今年の2月に兵庫重賞を圧勝。初挑戦となった重賞は内で捌けず6着でしたが,1秒差で,このときの不完全燃焼だった内容から重賞で通用するだろうと思えました。今日はそのときより4キロも斤量が軽くなっていましたので,ほかの馬との比較から,スピードを生かすレースをすれば圧勝まであると見立てていました。発走後の直線の騎乗は乱暴だったと思いますが,結果自体は能力通りのものであったといえるでしょう。斤量の恩恵がなくても重賞で通用する馬であると思います。父はタイムパラドックス。ひとつ上の全兄が昨年のNARグランプリ年度代表馬で現役のソルテ
 騎乗した兵庫の川原正一騎手と管理している兵庫の住吉朝男調教師はかきつばた記念初制覇。

 思惟の様態cogitandi modiとして永遠aeterunusであるものとしては,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusがあります。第一部定理二一から,無限知性は思惟の属性によって永遠でなければなりません。なので第五部定理二三備考により,無限知性が何かを認識するとしても,その何かは持続するdurareと認識されることはありません。ただし,ここで注意したいのは,何かを持続すると認識するということと,その何かが現実的に存在すると認識するということは,おそらく別であろうということです。第二部定理八系では,個物res singularesが神の属性に包容されている限りにおいてのみ存在する間は,その個物の客観的有esse objectivumすなわちその個物の観念は,神の無限な観念つまり無限知性が存在する限りで存在し,個物が持続するという存在を含むようになると,その個物の観念も持続するといわれる存在を含むようになるとされています。ただ,持続するといわれるようになるからといって,無限知性が存在する限りで存在するといわれる場合は消滅するわけではありません。したがって,無限知性は現実的に存在する個物を持続するものとして,いい換えればいつからいつまで持続するというように認識することはありませんが,その個物自体を認識しないというわけではないのです。
                                     
 僕は個物の本性には個物が持続するものであるということが含まれていると考えていますが,この場合の解釈の最大の難点はこの部分にあると思っています。現実的に存在する個物を無限知性が認識するということ,他面からいえば現実的に存在する個物の観念ideaが無限知性のうちに含まれているということは否定できない筈なので,その場合にはその個物の観念は持続するものという本性natura,essentiaを含んでいなければなりません。ところが第五部定理二三備考は,それを否定しているように思えるからです。もっとも,これは個物の本性とは何かという問題です。個物が持続するということがその本性に含まれないとすれば,それはそれでまた別の難題を惹き起こすのです。ここでそれを繰り返すことはやめましょう。ただ,第二部定義五から分かるように,持続Duratioといってもそれは無限定なindefinita継続continuatioなので,それが極度に永遠性aeternitasに反することはありません。
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ドストエフスキー『悪霊』の衝撃&生前と死後

2017-05-02 19:14:33 | 歌・小説
 『謎とき『悪霊』』を書いたのが亀山郁夫であったように,亀山は『悪霊』に対しては他の小説にはない特殊な感情を抱いているようです。なので『悪霊』に関連するほかの著作もあります。『ドストエフスキー『悪霊』の衝撃』もそうした一冊です。
                                     
 ただし,この本は純粋な亀山の著作ではありません。ロシア人のドストエフスキー研究家にリュドミラ・サラスキナという人がいます。亀山はサラスキナと2011年1月23日に東京外国語大学の本郷サテライトで公開の対話を行いました。本書の大部分はその対話で占められていて,さらにメールによる通信があります。最後に『悪霊』に関連するサラスキナによる論考と亀山による論考がひとつずつ収録されているという形式になっています。なので著者名も亀山だけでなくサラスキナが含まれています。
 対話の部分についていえば,僕にはあまりふたりの話は嚙み合っていないように思えました。亀山は僕からみてロマンティストの傾向を有しているのですが,サラスキナは逆に極度のリアリストであるように思えます。また,サラスキナは僕がいう作家論と作品論では作家論的な傾向がかなり強く,テクストを解釈するにあたって,テクストそのものよりもドストエフスキーの意図から解釈しようという意欲が強く出ているように思えます。そしてサラスキナの精神のうちには独自のドストエフスキー像のようなものがあって,それが偶像化している,あるいは神格化しているように僕には感じられます。極端にいうと,ドストエフスキーという作家自身に対する批判は何も許容しないという傾向がサラスキナにはあるように思えました。
 一方,亀山はサラスキナについて,敬愛するドストエフスキー研究家といういい方をしています。このためにサラスキナのドストエフスキーに対する関係が,亀山のサラスキナに対する関係とパラレルな関係にあるようにも思えます。このために亀山のサラスキナに対する質問が,鋭さに欠けているような印象も僕にはありました。
 つまらない本だとは思いません。ただ僕には消化不良の感が残るものでした。

 現実的に存在する人間の精神mens humanaによる自己認識が課題ですから,認識する側の人間の精神が永遠の相species aeternitatisの下に表現されている限りで自己をどのように認識するのかについては考える必要がありません。というよりも,たぶんこれは考えることが不可能な事柄に属しているのだと僕は思います。ただひとつだけ明らかなことは,第五部定理二三備考から,そのような精神が何事かを認識するとしても,その何事かが持続するdurareというように認識されることは絶対にないということです。これは認識される事物が何であっても妥当しなければならないので,もし自分の身体corpusを認識したり自分の精神を認識するということがあるのだとしても,それが現実的に存在するものとして認識されることはありません。
 残るのはひとつで,現実的に存在する精神が,自分の身体および精神について,持続するものとしてそれを認識するのではなく,永遠なものとして認識する場合のその認識cognitioのありようです。そしてこのありようを理解する上で最重要の基礎を成すのは,第一部定義八説明でスピノザがいっていることだと僕は考えます。永遠aeterunusは持続duratioによって説明することはできません。第二部定義五において,持続とは存在の無限定な継続であるDuratio est indefinita existendi continuatioといわれていますが,永遠とは,無限定な持続とは異なるのです。スピノザはこれを示すために,僕たちが自己の精神が永遠であるということを感じかつ体験するとしても,僕たちは持続の下に存在し始める前のことを想起することができないという主旨のことをいっています。ただ,僕の考えでいえばこれは不十分な説明です。というのは,自己の永遠性aeternitasというのは,普通は産まれる前のことと関係して解されるのではなく,死んだ後のことと関係して解されるからです。しかし永遠は持続によって説明不可能なのですから,精神が永遠であるといっても,それは死んだ後にも精神がその現実的存在を継続するという意味ではありません。よってもしある人間が自己の永遠性をそのように認識するとすれば,それは第三種の認識cognitio tertii generisなどではなく,単なる表象imaginatioにすぎません。人間の永遠性とは,産まれる前にも存在したし死後も存在し続けるということではないのです。
コメント
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