スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典兵庫チャンピオンシップ&自由意志の否定

2012-05-03 18:35:48 | 地方競馬
 数少ない3歳馬によるダート重賞のひとつ,第13回兵庫チャンピオンシップ
 先手を奪ったのはエイシンキンチェム。これは想定していた展開のひとつ。外にオースミイチバン,内にタイセイシュバリエと続き,プーラヴィータがその後ろでしたが,出遅れたスノードンが1周目の正面で外を進出,4番手まで上がりました。かなりのスローペースだった筈で,折り合いをつけるのに苦労しているかに見受けられる馬もいました。
 2周目の向正面で,内を開けて逃げていたエイシンキンチェムに,内からタイセイシュバリエが並び掛けました。対してオースミイチバンは2頭の外を回り,4コーナーではこちらが先頭に。そのまま2馬身半の差をつけて快勝。内を突いたタイセイシュバリエが2着。エイシンキンチェムは苦しくなり,これを捕えたプーラヴィータが2馬身半差の3着。
 優勝したオースミイチバンは4戦して未勝利の後,3月の未勝利戦を2秒もの差をつけて勝つと前走の条件戦も4馬身差で連勝。おそらくここにきて素質が開花していたもので,今日のメンバーでは最有力候補と思われましたので,この優勝自体は順当といえるもの。本格化してからは底を見せていませんので,その分の魅力はある馬だと思います。父はアグネスタキオン,母はフサイチコンコルド産駒で重賞4勝のオースミハルカフロリースカップトサモアーの分枝。
 騎乗したのは川島信二騎手で管理しているのは荒川義之調教師。ふたりとも兵庫チャンピオンシップは初勝利。

 一般的に僕たちは,人間の精神がある事物を認識するということを,その精神が主体として対象となる事物を認識するというようなモデルで考えがちです。いい換えれば何を認識しまた何を認識しないのかということは,この主体の自由である,あるいは完全に自由であるといえないとしても,その主体の裁量によって決定されると考えがちなわけです。しかしスピノザの認識論のように,人間の精神が自動機械であると考えた場合には,人間の精神がある事物を認識する場合に,そうした裁量が入り込む余地は少しもありません。人間の精神による事物の認識における決意の不在というのは,具体的にはそのようなことを意味していると考えるべきなのです。
 実はこのこと自体は,すでに考察したことがある別の観点からも,同じような結論を得ることができるだろうと僕は考えています。それは,スピノザの哲学における責任論とはどのようなものかを探求した際にテーマとして設定した第一部定理三二です。
 ここでは一般的な意味で自由な意志というのが否定されています。一般的な意味で否定されているのですから,人間の精神には自由な意志はないと,スピノザが主張していることは間違いありません。そもそもその直後の第一部定理三二系一では,スピノザは神に関してさえ意志の自由を否定しているわけです。ですから人間に意志の自由があるなどと主張する筈がありません。
 このことから,人間が事物を認識するというときに,何を認識しまた何を認識しないのかということについて,またあるいはあるものを認識するときにそれをどのように認識するのかということについて,それが人間の意志に任されるということはないということは,直ちに導かれるということになるでしょう。そして第一部定理三二が示していることは,意志は自由なものではなくて必然的なものであるということなのですから,もしも人間がある事物を認識するときに,その人間の意志が介在するとしても,それは必然的なものとして介在するということになります。つまり認識は必然的に,いい換えればある法則に則って行われるということになります。よって人間の精神は一種の自動機械であるということが,ここからも帰結するのです。
コメント (1)
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