『謎とき『悪霊』』を書いたのが亀山郁夫であったように,亀山は『悪霊』に対しては他の小説にはない特殊な感情を抱いているようです。なので『悪霊』に関連するほかの著作もあります。『ドストエフスキー『悪霊』の衝撃』もそうした一冊です。
ただし,この本は純粋な亀山の著作ではありません。ロシア人のドストエフスキー研究家にリュドミラ・サラスキナという人がいます。亀山はサラスキナと2011年1月23日に東京外国語大学の本郷サテライトで公開の対話を行いました。本書の大部分はその対話で占められていて,さらにメールによる通信があります。最後に『悪霊』に関連するサラスキナによる論考と亀山による論考がひとつずつ収録されているという形式になっています。なので著者名も亀山だけでなくサラスキナが含まれています。
対話の部分についていえば,僕にはあまりふたりの話は嚙み合っていないように思えました。亀山は僕からみてロマンティストの傾向を有しているのですが,サラスキナは逆に極度のリアリストであるように思えます。また,サラスキナは僕がいう作家論と作品論では作家論的な傾向がかなり強く,テクストを解釈するにあたって,テクストそのものよりもドストエフスキーの意図から解釈しようという意欲が強く出ているように思えます。そしてサラスキナの精神のうちには独自のドストエフスキー像のようなものがあって,それが偶像化している,あるいは神格化しているように僕には感じられます。極端にいうと,ドストエフスキーという作家自身に対する批判は何も許容しないという傾向がサラスキナにはあるように思えました。
一方,亀山はサラスキナについて,敬愛するドストエフスキー研究家といういい方をしています。このためにサラスキナのドストエフスキーに対する関係が,亀山のサラスキナに対する関係とパラレルな関係にあるようにも思えます。このために亀山のサラスキナに対する質問が,鋭さに欠けているような印象も僕にはありました。
つまらない本だとは思いません。ただ僕には消化不良の感が残るものでした。
現実的に存在する人間の精神mens humanaによる自己認識が課題ですから,認識する側の人間の精神が永遠の相species aeternitatisの下に表現されている限りで自己をどのように認識するのかについては考える必要がありません。というよりも,たぶんこれは考えることが不可能な事柄に属しているのだと僕は思います。ただひとつだけ明らかなことは,第五部定理二三備考から,そのような精神が何事かを認識するとしても,その何事かが持続するdurareというように認識されることは絶対にないということです。これは認識される事物が何であっても妥当しなければならないので,もし自分の身体corpusを認識したり自分の精神を認識するということがあるのだとしても,それが現実的に存在するものとして認識されることはありません。
残るのはひとつで,現実的に存在する精神が,自分の身体および精神について,持続するものとしてそれを認識するのではなく,永遠なものとして認識する場合のその認識cognitioのありようです。そしてこのありようを理解する上で最重要の基礎を成すのは,第一部定義八説明でスピノザがいっていることだと僕は考えます。永遠aeterunusは持続duratioによって説明することはできません。第二部定義五において,持続とは存在の無限定な継続であるDuratio est indefinita existendi continuatioといわれていますが,永遠とは,無限定な持続とは異なるのです。スピノザはこれを示すために,僕たちが自己の精神が永遠であるということを感じかつ体験するとしても,僕たちは持続の下に存在し始める前のことを想起することができないという主旨のことをいっています。ただ,僕の考えでいえばこれは不十分な説明です。というのは,自己の永遠性aeternitasというのは,普通は産まれる前のことと関係して解されるのではなく,死んだ後のことと関係して解されるからです。しかし永遠は持続によって説明不可能なのですから,精神が永遠であるといっても,それは死んだ後にも精神がその現実的存在を継続するという意味ではありません。よってもしある人間が自己の永遠性をそのように認識するとすれば,それは第三種の認識cognitio tertii generisなどではなく,単なる表象imaginatioにすぎません。人間の永遠性とは,産まれる前にも存在したし死後も存在し続けるということではないのです。
ただし,この本は純粋な亀山の著作ではありません。ロシア人のドストエフスキー研究家にリュドミラ・サラスキナという人がいます。亀山はサラスキナと2011年1月23日に東京外国語大学の本郷サテライトで公開の対話を行いました。本書の大部分はその対話で占められていて,さらにメールによる通信があります。最後に『悪霊』に関連するサラスキナによる論考と亀山による論考がひとつずつ収録されているという形式になっています。なので著者名も亀山だけでなくサラスキナが含まれています。
対話の部分についていえば,僕にはあまりふたりの話は嚙み合っていないように思えました。亀山は僕からみてロマンティストの傾向を有しているのですが,サラスキナは逆に極度のリアリストであるように思えます。また,サラスキナは僕がいう作家論と作品論では作家論的な傾向がかなり強く,テクストを解釈するにあたって,テクストそのものよりもドストエフスキーの意図から解釈しようという意欲が強く出ているように思えます。そしてサラスキナの精神のうちには独自のドストエフスキー像のようなものがあって,それが偶像化している,あるいは神格化しているように僕には感じられます。極端にいうと,ドストエフスキーという作家自身に対する批判は何も許容しないという傾向がサラスキナにはあるように思えました。
一方,亀山はサラスキナについて,敬愛するドストエフスキー研究家といういい方をしています。このためにサラスキナのドストエフスキーに対する関係が,亀山のサラスキナに対する関係とパラレルな関係にあるようにも思えます。このために亀山のサラスキナに対する質問が,鋭さに欠けているような印象も僕にはありました。
つまらない本だとは思いません。ただ僕には消化不良の感が残るものでした。
現実的に存在する人間の精神mens humanaによる自己認識が課題ですから,認識する側の人間の精神が永遠の相species aeternitatisの下に表現されている限りで自己をどのように認識するのかについては考える必要がありません。というよりも,たぶんこれは考えることが不可能な事柄に属しているのだと僕は思います。ただひとつだけ明らかなことは,第五部定理二三備考から,そのような精神が何事かを認識するとしても,その何事かが持続するdurareというように認識されることは絶対にないということです。これは認識される事物が何であっても妥当しなければならないので,もし自分の身体corpusを認識したり自分の精神を認識するということがあるのだとしても,それが現実的に存在するものとして認識されることはありません。
残るのはひとつで,現実的に存在する精神が,自分の身体および精神について,持続するものとしてそれを認識するのではなく,永遠なものとして認識する場合のその認識cognitioのありようです。そしてこのありようを理解する上で最重要の基礎を成すのは,第一部定義八説明でスピノザがいっていることだと僕は考えます。永遠aeterunusは持続duratioによって説明することはできません。第二部定義五において,持続とは存在の無限定な継続であるDuratio est indefinita existendi continuatioといわれていますが,永遠とは,無限定な持続とは異なるのです。スピノザはこれを示すために,僕たちが自己の精神が永遠であるということを感じかつ体験するとしても,僕たちは持続の下に存在し始める前のことを想起することができないという主旨のことをいっています。ただ,僕の考えでいえばこれは不十分な説明です。というのは,自己の永遠性aeternitasというのは,普通は産まれる前のことと関係して解されるのではなく,死んだ後のことと関係して解されるからです。しかし永遠は持続によって説明不可能なのですから,精神が永遠であるといっても,それは死んだ後にも精神がその現実的存在を継続するという意味ではありません。よってもしある人間が自己の永遠性をそのように認識するとすれば,それは第三種の認識cognitio tertii generisなどではなく,単なる表象imaginatioにすぎません。人間の永遠性とは,産まれる前にも存在したし死後も存在し続けるということではないのです。