スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

小石のように&第五部定理二四の意味

2017-05-15 19:02:25 | 歌・小説
 「海と宝石」と僕の精神のうちで結びついている楽曲があります。それが「小石のように」です。実際にふたつの曲に関連があるわけではありません。ただ石という語に僕が連想を与えられただけです。
                                   
 「海と宝石」では雛のカモメが石を咥えて飛んでいきます。カモメが咥えるのですから小石に違いないでしょう。そのままカモメは海に流れ着く川を上流へと飛んでいき,山まで辿り着いて小石をぽとりと落とします。すると「小石のように」が始まります。

     山をくだる流れにのせて
     まだ見ぬ景色あこがれ焦がれ
     転がりだす石は16才
     流れはおもい次第


 この石は川を下って流れていきます。

     川はいつか幅も広がり
     暗く深く小石をけずる
     石は砂に砂はよどみに
     いまやだれにも見えない


 石は砂になってしまっても,何とか海まで辿り着くでしょう。そして流れ始めた山のことを思い出します。

     砂は海に海は大空に
     そしていつかあの山へ


 砂になってしまった石は,カモメに咥えられて大空を渡って再び山に戻ります。そこで再びカモメは石を落とし,石はまた山から川を下り出すでしょう。このようにして,「海と宝石」と「小石のように」は無限に連鎖していくことになるのです。

 第五部定理二四は,単に個物をより多く認識するのに比例して神をより多く認識するQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusといわれています。ですが実際はこの認識は第三種の認識cognitio tertii generisを意味します。つまりある人間の精神mens humanaが第三種の認識によって個物を多く認識すれば,その分だけその人間の精神は神をより多く認識するという意味です。なお,第三種の認識はそれ自体が十全な認識なので,ここでいわれている神の認識もまた当然ながら十全な認識になります。現実的に存在する個物をより多く表象するimaginariことが神を認識するということではないという点には注意が必要でしょう。
 この定理Propositioからいくつかのことが理解できます。まず第一に,スピノザは第三種の認識で個物を認識することを神を認識することと等置しているということです。個物を多く認識するほど神を多く認識するのですから,これはそれ自体で明らかでしょう。したがって,人間の精神による第三種の認識での個物の認識は,単に個物の認識であるというより,神の認識であると説明されなければなりません。つまり,現実的に存在する人間の精神が思惟の属性の個物であるということに注意するなら,人間が自分の精神について第三種の認識で何かを認識することは,単に自分の精神を認識しているというのではなく,神を認識しているのだと説明されなければなりません。このゆえに僕はこれは自己認識であるというより,神の認識であると解するのです。
 ただ,もしもこうした認識が,現実的に存在する人間にとって,自分の精神が対象objectum,subjectumとなった場合にのみ特有に生じる思惟作用であるとしたなら,確かにそれは神の認識ではあっても自己認識でもあるといわなければならないでしょう。ですが第五部定理二四の存在は,それを否定しているといえます。なぜなら,もしも現実的に存在する人間による第三種の認識が,自分の精神が観念の対象になった場合にのみ固有に生じる思惟作用であると仮定するなら,第五部定理二四は単に論理的に正しいということを意味するだけで,現実的には無意味になってしまうからです。逆にいうなら,人間の精神が自分の精神以外の個物も第三種の認識で認識し得るから,このことが主張されているのです。
コメント
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