第四部定理六三系は,一般的な意味において,僕たちが理性ratioから生じる欲望cupiditasによって直接的に善bonumに就き,間接的に悪malumを逃れるということを示しています。これは系Corollariumなので,定理Propositioから導かれる筈なのですが,第四部定理六三というのはむしろ個別の事象について言及しているように思われます。スピノザには『エチカ』に定理や系を示していくにあたり,配置の意図があったものと思われますので,この部分はやや珍しい特徴をもっているといえるかもしれません。

「恐怖に導かれて,悪を避けるために善をなす者は,理性に導かれていない」。
証明Demonstratioは簡単です。第三部諸感情の定義一三により,不安metusは悲しみtristitiaです。第三部定理五九により,精神の能動actio Mentisと関連する悲しみは存在しません。一方で理性は精神の能動です。よって不安から生じる欲望によって何かをなすなら,その人は理性によって導かれていることにはなりません。ただ行動において,理性に導かれる人と一致する場合があるだけです。
スピノザはアルベルトAlbert Burghのローマカトリックへの信仰fidesの理由は地獄への不安とみなしていました。しかし地獄に不安を感じるがゆえに,アルベルトは悪を避けるための善をなすかもしれません。しかしそれはアルベルトの理性に由来する行為ではありません。ただ,もしも宗教religioが,悪を避け善をなすように強いる不安を信者に与えるならば,その限りにおいて宗教は有益であるとスピノザはいうでしょう。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,神学と哲学を峻別しつつ,それでも宗教は有用であるとスピノザがみなすのは,こうした哲学的規準に依拠しているといえます。
そしてこのように解すれば,『神学・政治論』で述べられている,人間は理性に従うことによって敬虔pietasであるということができるという主張の哲学的規準が,第四部定理六三系には含まれているとみることができるのではないでしょうか。
現在の考察との関連で第五部定理二四に訴求する場合,考慮しておかなければならないことが含まれます。ですがこの定理Propositioは過去に考察した事柄と若干の関係を有していると思われますので,また現状の課題からは外れてしまうのですが,そちらを先に述べておきます。
『エチカ』のテクストには「ふたつの個物」が表出しています。第五部定理二四で示されているのはそのうち個別的事物res singularesの方です。そしてスピノザはこの定理の論証Demonstratioは,第一部定理二五系から明白であるという以上のことは何もいっていません。第一部定理二五系で示されているのは特殊的事物Res particularesの方です。なのでこれでみれば,スピノザは個別的事物と特殊的事物は完全に同じ意味だと解しているように思われるのです。いい換えればそれらに同一の訳を与える正当性のひとつが,ここに示されていると考えることができるようになっているのです。
もちろん『概念と個別性』で示されているように,特殊的事物とは間接無限様態と個別的事物の両方を意味するのだと解しても,このスピノザの証明が成立することは僕も認めます。個別的事物が特殊的事物の一種類であるなら,特殊的事物に妥当することは個別的事物にも妥当しなければならないからです。ただスピノザは特殊的事物の何たるかについて『エチカ』で明言しているわけではありません。単に第一部定理二五系で,神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturだといっているだけなのです。したがって,間接無限様態について何らかの事柄を論証するために援用されることがない特殊的事物について,個別的事物について論証するためには援用されているということに鑑みれば,やはり特殊的事物と個別的事物はを,スピノザは同一のものとみていると解するのが妥当なのではないかと僕は思います。
間接無限様態を個物とみなす見方は,『概念と個別性』だけでなく,『スピノザ「共通概念」試論』や『個と無限』とりわけその中の「「エチカ」第一部のふたつの因果性がめざすもの」にもみられます。この主張が妥当性を有するためには,第二部定義七や岩波文庫版116ページの第二部自然学②補助定理七備考の方が重要だと僕は考えます。

「恐怖に導かれて,悪を避けるために善をなす者は,理性に導かれていない」。
証明Demonstratioは簡単です。第三部諸感情の定義一三により,不安metusは悲しみtristitiaです。第三部定理五九により,精神の能動actio Mentisと関連する悲しみは存在しません。一方で理性は精神の能動です。よって不安から生じる欲望によって何かをなすなら,その人は理性によって導かれていることにはなりません。ただ行動において,理性に導かれる人と一致する場合があるだけです。
スピノザはアルベルトAlbert Burghのローマカトリックへの信仰fidesの理由は地獄への不安とみなしていました。しかし地獄に不安を感じるがゆえに,アルベルトは悪を避けるための善をなすかもしれません。しかしそれはアルベルトの理性に由来する行為ではありません。ただ,もしも宗教religioが,悪を避け善をなすように強いる不安を信者に与えるならば,その限りにおいて宗教は有益であるとスピノザはいうでしょう。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,神学と哲学を峻別しつつ,それでも宗教は有用であるとスピノザがみなすのは,こうした哲学的規準に依拠しているといえます。
そしてこのように解すれば,『神学・政治論』で述べられている,人間は理性に従うことによって敬虔pietasであるということができるという主張の哲学的規準が,第四部定理六三系には含まれているとみることができるのではないでしょうか。
現在の考察との関連で第五部定理二四に訴求する場合,考慮しておかなければならないことが含まれます。ですがこの定理Propositioは過去に考察した事柄と若干の関係を有していると思われますので,また現状の課題からは外れてしまうのですが,そちらを先に述べておきます。
『エチカ』のテクストには「ふたつの個物」が表出しています。第五部定理二四で示されているのはそのうち個別的事物res singularesの方です。そしてスピノザはこの定理の論証Demonstratioは,第一部定理二五系から明白であるという以上のことは何もいっていません。第一部定理二五系で示されているのは特殊的事物Res particularesの方です。なのでこれでみれば,スピノザは個別的事物と特殊的事物は完全に同じ意味だと解しているように思われるのです。いい換えればそれらに同一の訳を与える正当性のひとつが,ここに示されていると考えることができるようになっているのです。
もちろん『概念と個別性』で示されているように,特殊的事物とは間接無限様態と個別的事物の両方を意味するのだと解しても,このスピノザの証明が成立することは僕も認めます。個別的事物が特殊的事物の一種類であるなら,特殊的事物に妥当することは個別的事物にも妥当しなければならないからです。ただスピノザは特殊的事物の何たるかについて『エチカ』で明言しているわけではありません。単に第一部定理二五系で,神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturだといっているだけなのです。したがって,間接無限様態について何らかの事柄を論証するために援用されることがない特殊的事物について,個別的事物について論証するためには援用されているということに鑑みれば,やはり特殊的事物と個別的事物はを,スピノザは同一のものとみていると解するのが妥当なのではないかと僕は思います。
間接無限様態を個物とみなす見方は,『概念と個別性』だけでなく,『スピノザ「共通概念」試論』や『個と無限』とりわけその中の「「エチカ」第一部のふたつの因果性がめざすもの」にもみられます。この主張が妥当性を有するためには,第二部定義七や岩波文庫版116ページの第二部自然学②補助定理七備考の方が重要だと僕は考えます。