スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

KEIRINグランプリ2015&受動による敬虔

2016-01-02 19:13:32 | 競輪
 12月30日に京王閣競輪場で争われたKEIRINグランプリ2015。並びは新田‐山崎の福島,武田‐平原‐神山の関東,稲垣‐村上の京都で浅井と園田は単騎。
 迷うことなく新田がスタートを取って前受け。3番手に武田,6番手に園田,7番手に浅井,8番手に稲垣の周回に。残り3周のバックから稲垣が上昇。3番手の武田が併せて出て,いきなり主導権争いに発展しそうでしたが,ホームで稲垣が叩き,武田は3番手に。神山の後ろには浅井が入って7番手に園田,引いた新田が8番手の一列棒状に。このまま打鐘,ホームと経過し,バックに入るあたりから武田が発進。しかしこれは村上に合わされてしまいました。平原はすぐさま自力に転じ,内から神山をどかした浅井がマークする形で捲りきると,直線では浅井が平原を差して優勝。大外を捲り追い込んだ新田が半車身差の2着に届き,平原はさらに半車身差の3着まで。
 優勝した三重の浅井康太選手は8月の四日市記念以来の優勝。ビッグは2011年9月のオールスター競輪以来の3勝目でグランプリは初優勝。その2011年以降はずっとグランプリに出場。ただ位置的に恵まれないところもあって優勝には届いていませんでした。今回は単騎での戦いになり,常識的には厳しいところなのですが,脚力だけでなく,勝負勘に優れたタイプの選手なので,一発勝負をするという場合にはむしろよかったのかもしれません。地元で記念優勝して以降はやや不振傾向にあると感じていて,僕自身は厳しいのではないかとみていたのですが,ものの見事に覆されてしまいました。

 人間が混乱した観念によっても敬虔になる場合があるということは,『神学・政治論』における基本的テーゼのひとつです。ですがここでは形而上学的説明を試みているので,こちらの点についてはもう少し説明しておきましょう、
 スピノザはアルベルトへの返信の中で,ローマ教会の規律が政治的なものであり,それは人心を抑制する最適な方法であるといっていました。ここで人心の抑制といわれるとき,それが態度としての敬虔を意味し得ることはいうまでもありません。つまり教会の規律を表象することで人は敬虔になり得るということを,スピノザはここで暗黙裡に認めているといえます。
                                  
 同じ書簡の中でスピノザは,ローマ教会の内部に品行方正な人が多く存在することを認めるともいっています。こちらの方は文脈上は教会が人を敬虔にさせているというより,信者の理性がそうさせていると読解するべきかもしれないので,ここでの例示としては相応しくないかもしれませんが,アルベルトに対しては理性を失っているというように書いていますので,そのような場合についても念頭に入っていた可能性はあります。
 この同じ文脈の中で,だからローマ教会だけが敬虔な生活様式を独占できるというわけではないとスピノザはいっています。というのは,そのような人物はほかの宗派にも存在するからです。そしてスピノザはいくつかの宗派を羅列していますが,最初に言及されているのはルター派です。スピノザがここでルター派を出すとき,マイエルのことを念頭に置いていたかもしれません。間違いなくマイエルは,スピノザから見て敬虔であったであろうからです。ただしマイエルの敬虔さについても,スピノザはそれは信仰によるものというより,理性に依拠したものと考えていたかもしれません。ただこの部分の全体的な文脈は,明らかに宗教に対する帰依によって信者が敬虔になるということを認めていたことの証になりそうです。
 そこで最後の課題は,理性によって敬虔になる場合と,宗教的帰依によって敬虔になる場合で,なぜ形而上学的に考えた場合の「共通点」が存在しないといえるのかということを検証することです。
コメント
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