先月末の高松宮記念を勝ったローレルゲレイロの父はキングヘイローで,父子制覇となったわけですが,この馬の母系は日本で戦前からの歴史があります。
日本での母系祖先となっているのは1923年にイギリスで産まれたセレタという馬。ファミリーナンバーは1-bで,これはフラストレートと同じになります。
記録を見ますとセレタは多くの子どもを日本で残したようですが,現在まで続いているのはたぶん1938年に産まれた英月という馬の流れを汲むものだけではないかと思います。このうちもっとも枝葉を広げているのは,1947年産まれのケンタッキーの分枝で,ローレルゲレイロもここに入ります。
この系統から出て近年の競馬で活躍した馬は,2000年のスプリンターズステークスを逃げ切って大穴を開けたダイタクヤマト。同年の最優秀短距離馬,また最優秀父内国産馬に選出されました。この馬もケンタッキーの分枝で,ケンタッキーのひ孫に当たるのですが,ローレルゲレイロとはそのケンタッキーまで同一祖先がありませんので,もはや近親とはいい難い関係になっています。ちなみにローレルゲレイロはケンタッキーからみればひ孫のひ孫。
もう1頭,この系統からは個人的に思い出に残っている馬も出ています。僕は大学の卒業旅行で小倉競馬場に行きました。そのとき改修中だった中京競馬場の代替開催で,メーンが中京記念。この中京記念を勝ったアラシという馬が,やはりケンタッキーの分枝になります。
体重がずっとこのような状態でしたから,ダイエットということばは僕には無縁です。僕の体質というものはスピノザの哲学の概念で示すなら,僕の身体の本性,ないしは僕の身体の本性から必然的に帰結するような特質であるということになると思いますが,僕が太らない原因はこの点にあるといっていいでしょう。
こういう場合に,僕のような体質は大抵の場合は太らない体質と規定されます。そしてそこに一種の羨望のようなものさえ混ざっている場合もあるように感じます。しかし,実際にこういう体質の人間からすれば,これは太れない体質,太ることができない体質であるともいえます。こういう体質の人間は僕ばかりではなくほかにもいらっしゃると思いますが,この体質にはこの体質の悩みのようなものがあります。あるいは悩んではいないとしても,もう少し太りたいという欲望を持っているのが通常であると思います。
ところが一般的にはこのような悩みないしは欲望というのは,贅沢なものであるといわれがちです。しかしこのために,この悩みというのは,それが理解されにくいことによってより深くなりがちですし,このために孤立化していくものです。おおよそダイエットなどをする必要などないと思えるような人間が,痩せたいと思うこと,またそうした悩みを持つことに対しては,一般的に広く理解されるのに対し,僕のような人間が太りたいと思うこと,本来はもっと体重があってしかるべきとされる人間が太りたいと思うことには同じような理解がないというのは,僕のような人間からすればこれは悲しいことです。別にそれを理解しろとはいいませんが,こういう体質の人間が太りたいと願うことの深刻さは,多くの人が痩せたいと願望している深刻さに比べても,少なくとも同じ程度のものがあるということは,気にとめておいてほしいものです。
日本での母系祖先となっているのは1923年にイギリスで産まれたセレタという馬。ファミリーナンバーは1-bで,これはフラストレートと同じになります。
記録を見ますとセレタは多くの子どもを日本で残したようですが,現在まで続いているのはたぶん1938年に産まれた英月という馬の流れを汲むものだけではないかと思います。このうちもっとも枝葉を広げているのは,1947年産まれのケンタッキーの分枝で,ローレルゲレイロもここに入ります。
この系統から出て近年の競馬で活躍した馬は,2000年のスプリンターズステークスを逃げ切って大穴を開けたダイタクヤマト。同年の最優秀短距離馬,また最優秀父内国産馬に選出されました。この馬もケンタッキーの分枝で,ケンタッキーのひ孫に当たるのですが,ローレルゲレイロとはそのケンタッキーまで同一祖先がありませんので,もはや近親とはいい難い関係になっています。ちなみにローレルゲレイロはケンタッキーからみればひ孫のひ孫。
もう1頭,この系統からは個人的に思い出に残っている馬も出ています。僕は大学の卒業旅行で小倉競馬場に行きました。そのとき改修中だった中京競馬場の代替開催で,メーンが中京記念。この中京記念を勝ったアラシという馬が,やはりケンタッキーの分枝になります。
体重がずっとこのような状態でしたから,ダイエットということばは僕には無縁です。僕の体質というものはスピノザの哲学の概念で示すなら,僕の身体の本性,ないしは僕の身体の本性から必然的に帰結するような特質であるということになると思いますが,僕が太らない原因はこの点にあるといっていいでしょう。
こういう場合に,僕のような体質は大抵の場合は太らない体質と規定されます。そしてそこに一種の羨望のようなものさえ混ざっている場合もあるように感じます。しかし,実際にこういう体質の人間からすれば,これは太れない体質,太ることができない体質であるともいえます。こういう体質の人間は僕ばかりではなくほかにもいらっしゃると思いますが,この体質にはこの体質の悩みのようなものがあります。あるいは悩んではいないとしても,もう少し太りたいという欲望を持っているのが通常であると思います。
ところが一般的にはこのような悩みないしは欲望というのは,贅沢なものであるといわれがちです。しかしこのために,この悩みというのは,それが理解されにくいことによってより深くなりがちですし,このために孤立化していくものです。おおよそダイエットなどをする必要などないと思えるような人間が,痩せたいと思うこと,またそうした悩みを持つことに対しては,一般的に広く理解されるのに対し,僕のような人間が太りたいと思うこと,本来はもっと体重があってしかるべきとされる人間が太りたいと思うことには同じような理解がないというのは,僕のような人間からすればこれは悲しいことです。別にそれを理解しろとはいいませんが,こういう体質の人間が太りたいと願うことの深刻さは,多くの人が痩せたいと願望している深刻さに比べても,少なくとも同じ程度のものがあるということは,気にとめておいてほしいものです。