スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&永遠の公式

2016-02-15 19:31:44 | 将棋
 湯原温泉で指された昨日の第42期女流名人戦五番勝負第四局。
 清水市代女流六段の先手で里見香奈女流名人が相居飛車を選択。先手の右玉,後手の矢倉という戦型になりました。序盤の後手の対応が拙く,そこで実質的な勝敗が決してしまったような将棋だったと思います。
                                    
 6八から銀が上がった局面。ここから△8六歩▲同歩△同角と交換して,先手の構えに特有の▲2九飛に△4二角と引きました。手順に角を上がる指し方で,矢倉の引き角からはよくある手順ですが,この戦型では安易だったかもしれません。第1図で単に△4二角と上がっていたら別の将棋になっていたでしょう。
 ▲8七歩と打つ指し方もありますが,この形は▲6六角と上がってみたいところであるとは思います。対して△7四歩と突いて桂馬を使いにいきましたが,△6四歩から角を攻めるのを急ぐ手が優っていたようです。
 ▲7七桂と跳ねてから△6四歩でしたがここでは遅く,△5一銀と引いてこの銀を守りに使うのが最善だったよう。ただこの手は指しにくいような気がします。
 ▲8四歩で飛車先を止めました。対して△7三桂としましたが△6三銀でなければならなかったとのこと。▲8九飛に△8六歩▲同飛△6五歩と飛車角両取りを掛ける狙いでしたが▲8九飛と引かれ△6六歩に▲8三歩成△8一飛▲6六歩で,角の丸損でもと金を作って8筋を突破した先手が優勢になりました。このシリーズの里見名人は序盤で失敗しているケースが多いように感じます。
                                    
 清水六段が勝って2勝2敗。第五局は24日です。

 マルタンが示そうとしているスピノザとフェルメールの近似性は,高山が「豚のロケーション」で示したものとは異なっています。
 『フェルメールとスピノザ』の日本語版には,僕が永遠の定理と訳せばよかったと思っている,永遠の公式というサブタイトルがついていました。マルタンがフランス語で書いたものは,この副題の方が本題なのであり,フェルメールとスピノザという部分の方が副題だったのです。これでみれば分かるように,マルタンはフェルメールの絵画とスピノザの哲学の間には,永遠という語句で表現することができるような共通性があるとみているのです。かつそれが公式ないしは定理であるのですから,それはフェルメールのすべての絵画およびスピノザの哲学の全体を貫いているものだとマルタンは解していることになります。僕がマルタンの主張に疑義を感じるのはこの部分です。果たしてスピノザとフェルメールは,マルタンが主張する意味における永遠という観点から関連付けることができるのでしょうか。
 まず,スピノザの哲学が永遠という概念と容易に結びつけられるということは僕には理解できます。これは哲学の内容がどうというより,経験の上で理解できるという意味です。
 『漱石、もう一つの宇宙』では,分裂病と躁鬱病が分類される際,分裂病に区分される科学者が,永遠の相の下に仕事をすると形容されていました。塚本はそれについて何の注釈も与えていませんから,もしもスピノザを知らない読者であればそのまま読み過ごしてしまうでしょう。ですがスピノザの哲学に対して知識がありさえすれば,ここで塚本がスピノザを念頭に置いて分裂病圏の科学者について語っているということはたちどころに分かる筈です。「永遠の相」というのは第二部定理四四系二に出てくる表現なのであって,スピノザ以外のだれかがこれと同じようにいい回したというものではないからです。いわばスピノザのオリジナルであり,だから塚本の形容は即座にスピノザを連想させるわけです。
 これと同じ意味において,マルタンが永遠という語句からスピノザを連想したとして,何の不思議もないことが僕には理解できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする