スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

神の認識&共通概念の前提

2016-02-26 19:20:21 | 哲学
 『スピノザの世界』でいわれているように,精神があってそれが事物を認識するのではなく,精神など存在しなくても認識という思惟作用があるというのが,スピノザの哲学における認識と精神の関係の考え方の最大の特徴でした。このために一般的にいわれるような思惟の主体というものが,スピノザの哲学には存在しなくなっているのです。このことは神がある事物を認識するという場合にも該当しなければなりません。
 第一部定理三二系一では,神が意志の自由によって作用するということが否定されています。この系で主張されていることの主旨は,神が自由な意志によって世界を創造するというような考え方に反駁することにあるのは確かだといえると思います。ですがこの系は,神があれを意志したりこれを意志しなかったりすることは不可能であるということも含意されていると考えることができます。第二部定理四九系にあるように,スピノザの哲学では意志知性は同一です。ですから何を認識し何を認識しないかは神の自由な裁量のうちには含まれないということが,第一部定理三二系一に含まれているとみなすことも可能です。この意味において,神は認識の主体とはいえないでしょう。
                                    
 第二部定理七系は,神の本性から形相的に,すなわち知性の外部に生じることのすべてが,神の観念から客観的に,すなわち観念として生じるということを示しています。ここからも神が何を認識し何を認識しないのかということは,一般的な意味においては神の自由には属さず,必然的なものであるということが理解できます。この意味においても,神は認識の主体であるとはいえないでしょう。
 第一部定義七は,自由を一般的な意味とは異なって定義しています。なので第二部定理七系によって,むしろ神は自由に認識するのであり,強制されて認識するのではないということが帰結します。そうはいってもこのような認識作用について,それをある主体による思惟作用であるというのは困難であると僕は考えます。自由と意志を概念として切断することさえ一般的観点からどうかと思えるのに,主体と意志を概念的に切断するのは相当な無理があると思うからです。

 第二部定理一三が,人間が自分の身体や精神まで含めた事物を知覚したり想起したりすることの前提となる定理であるという点では,僕は「個を証するもの」で佐藤が主張していることに同意します。ですが一方で,佐藤の主張には不十分な点もあるのではないかと思うのです。というのもこの部分の佐藤の主張は,第二部定理一三が人間の精神による事物の認識の前提となるとすれば,それは知覚や想起だけであるというように読めるのですが,僕にはそうは思えないからです。つまり僕は,第二部定理一三が前提となる人間の精神による事物の認識は,知覚や想起だけではないと考えるのです。
 第二部定理三八および第二部定理三九の様式による人間の精神による共通概念の認識は,明らかにその人間の身体が現実的に存在していることが前提となっていると僕には思えます。これらどちらの定理も,自分の身体と共通するものの認識ですが,この認識は,自分の身体が現実的に存在しているという場合にのみ,その人間の精神のうちに生じる認識であると僕は解します。このことは,第二部定理三八の証明でも第二部定理三九の証明でも,スピノザが第二部定理一三を援用しているということから明らかだと思うのです。第二部定理八系は,人間の身体が現実的に存在している場合にのみその人間の精神も現実的に存在するということを含意するのですから,人間の精神による共通概念の認識は,その人間の精神が現実的に存在している場合にのみ生じるといえます。したがってこの認識もまた,第二部定理一三を前提として生じる認識であると僕は考えるのです。したがって,知覚や想起の観念が永遠であることはできないのと同じ理由によって,共通概念の認識も永遠ではあり得ないのではないかと僕は考えます。つまり第五部定理二三のあるものaliquidであることはできないという意味では,共通概念もまた,知覚および想起と同様である可能性があると僕は結論します。
 ですが,ここでは次の問題が発生します。スピノザは共通概念による認識を理性による認識と等置しています。第二部定理四四系二では事物を永遠の相の下に認識することが理性の本性に属するといわれているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする