スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理二三&方法論と実践

2016-02-08 19:24:56 | 哲学
 第三部定理二五証明する場合には,第三部定理二一でいわれている事柄が重要なポイントになります。これと同じように,第三部定理二六を論証する場合にも重要なポイントになる定理Propositioがあります。それが第三部定理二三です。
                                     
 「自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は,その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいは小であるのに応じて,より大であり,あるいはより小であるであろう」。
 最後の方は判別しにくい表現になっているかもしれません。ですがそう難しく考える必要はありません。憎んでいる人がより大きな悲しみtristitiaに刺激されれば自分はそれだけ大きな喜びlaetitiaを感じ,逆に大きな喜びに刺激されていると表象すれば自分はそれだけ大きな悲しみを感じるという意味です。
 つまり人は憎んでいる相手の喜びを否定し,悲しみを肯定するという傾向conatusを有するのです。そういう傾向があるconariということは,おそらく自身を顧みればだれしも思い当たるところがあるのではないでしょうか。そしてここから,憎んでいる人を喜ばせるものを否定し,悲しませるものを肯定するという第三部定理二六が出てくることは,とくに説明を要さないでしょう。
 ただし,いかに憎んでいるとはいえ,相手が人間であるなら,この種の喜びと悲しみは葛藤を伴うものです。というのは人間には感情の模倣imitatio affectuumという傾向もまたあるからです。人間は自分の愛するものの感情だけを模倣するのではなく,同類のものの感情を一般的に模倣します。なのでどんなに憎んでいる相手でも,喜んでいればその喜びを,悲しんでいるならその悲しみを模倣する傾向も有しているからです。

 マルタンが推理しているように,フェルメールがカメラ・オブスキュラの高性能のレンズを必要としていたとしてみましょう。
 このためにフェルメールに貢献できる人物が,単にレンズを製作するための学問に高い知識を有している人物ではないことは明白です。光線屈折学に高い知識を有していたとしても,それを応用するための方法論にも同じ程度の知識を有していなければ,高性能の望遠鏡のレンズを製作することは見込めないのと同じことが,カメラ・オブスキュラのレンズを製作するにあたっての理論と実践の間にも成立するからです。
 書簡三十九書簡四十は望遠鏡のレンズに特化したスピノザの理論と方法論に関する高い知識を示しているのだけれども,ここからカメラ・オブスキュラのレンズに関してもスピノザは同じように高い理論的知識とその理論を応用する方法論があったと推定してもいいだろうと僕は考えます。ではだからスピノザがフェルメールに対して貢献することができる人物であったと結論していいのかといえば,まだその十分な要件を満たしてはいません。なぜなら,理論を応用する術を知っているということと,その術を実践できるということは,また違ったことであるといわなければならないからです。
 この場合にフェルメールにとって,光学に高い知識を有しているというだけの人物は,フェルメール自身が求めている人物とはまったくいえません。むしろ理論的知識に関しては高度ではなくても,その応用に卓越した方法論を有した人物がいたとしたら,そちらの方が有益であった筈です。でもそれだけでも完璧ではないのです。なぜなら理論を応用して高性能のレンズを製作する方法に熟知している人物が,その方法論の通りに実際にレンズを製作することができるとは限らないからです。むしろ方法論は知らずとも,それを教えればその通りにレンズを製作することができる腕利きの職人が存在したとすれば,その人物こそ最もフェルメールに貢献できたとする余地があるのです。
 「天文学者」のモデルがスピノザであるためには,スピノザは方法論を熟知している職人であるという二役を満たさなければなりません。
コメント
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