スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

幼少期の経験&スピノザとメナセ

2015-06-20 19:07:20 | 歌・小説
 漱石の被害妄想については,幼少期の経験が影響しているのだという論評が数多くみられます。有名なところでは,吉本隆明や江藤淳がこういった見解を示しています。
                         
 漱石は1867年に産まれました。そのとき父が50歳で母が41歳。4人の兄と3人の姉がいました。
 生後間もなく,漱石は古道具屋もしくは八百屋の里子に出されます。しかし籠に入れられて商品と並べられていた漱石を見つけた姉のひとりが不憫に感じて連れ戻されました。
 翌1868年,今度は父の知り合いの家に養子に出されました。この年が明治維新の年。漱石の父は名主で,この知り合いも同じ名主でした。姓を塩原といいました。1872年に明治の戸籍制度が確立され,このとき漱石は塩原の実子として登録されました。すなわち戸籍の上でも夏目姓ではなく塩原姓を名乗ることになったわけです。
 ところが養父が不倫した上に愛人を囲ったため,養父母,戸籍上の実父と実母は1876年に離婚してしまいます。それで漱石は,戸籍上は塩原姓のまま夏目家に戻ることになりました。夏目姓に復籍したのはようやく1888年になってからでした。
 これでみれば漱石が特異な幼少期を過ごしたことは否定できません。それが成人後の精神障害の原因になっているということも,可能性としては否定できないでしょう。養子に出されることは現在よりも多くあったかもしれませんが,離婚率は逆に少なかったと思われます。その両方を経験している人間がそう多いとは思われないからです。
 吉本も江藤も,こうした経験は単に後の精神疾患の原因として作用しただけではなく,漱石が書いた小説にも影響を及ぼしているのだとしています。僕はこの種の心理学的決定論にはやや懐疑的ですが,それは間違っていると主張するつもりもありません。ただし僕は作家論と作品論では作品論の方を重視しますが,この主張は明らかに作家論的視点なので,作品をそういった視点から読むという点について,あまり興味を感じることはできません。しかしもしも作家論的要素を重視するのであれば,この漱石の幼少期の経験は,漱石の作品を読解する上で,避けては通れないものであるといえるでしょう。

 『ある哲学者の人生』を執筆するにあたって,ナドラーはかなり広範で多くの資料を参考にしています。それら複数の資料をもとに,ある事柄が確実であったなら,それは断定的に記述されます。しかしもし不確実であったなら,それを断定的に記述することをナドラーは避けます。これは僕が読んだ限りですが,基本的にこういった方針が貫徹されています。
 一口に不確実であるといっても,そこにはいろいろな不確実があります。すなわち全否定はできないけれども可能性はかなり薄いと思われることも不確実ですし,逆に可能性は非常に高いけれども確たる裏付けは取れないというのも不確実です。ナドラーはこれらさまざまな不確実を,一様には表現せず,いい回しで自身の結論を示唆しているように僕には見受けられます。
 それでいえば,メナセ・ベン・イスラエルが,スピノザの人生のある時点において師であったことがおそらくあり得るといういい回しは,不確実な事柄をいい表す場合には,かなり強い表現です。たとえばスピノザとレンブラントが知り合いであった可能性に関しては,なきにしもあらずといういい方で肯定しているのと比べたなら,もっと確実なこととして,メナセがスピノザの師であった時期があると,ナドラーが考えていることは間違いないでしょう。
 スピノザが通った学校で,メナセは教師をしていたことがありました。しかしナドラーは,スピノザとメナセが学校で親しい間柄になったということには否定的です。メナセは上級学年の授業を担当していたようですが,スピノザがその授業に参加するとすれば早くても1648年で,メナセは1649年にこの学校の教師を辞めているからだそうです。一応は重なり得るのですが,可能性としては低いというのがナドラーの推定なのでしょう。
 メナセは私塾を開校していたようで,そこにスピノザが通った可能性はあるとナドラーはみています。また,スピノザの父が,私的な家庭教師としてスピノザのためにメナセを雇った可能性もあるとしています。あるいは非公式な知的助言者であったかもしれないとしています。いずれにせよ,関係性は肯定するのが妥当でしょう。
コメント
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