スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

トートロジー&ベルナルド

2015-06-19 19:10:03 | 哲学
 『スピノザの方法』の書評で少し触れたように,『知性改善論』は未完で終っています。そしてその理由を,そこでスピノザが示そうとした方法論に無理があったからだという解釈は,僕は採用しませんが不可能ではありません。そう解釈できる余地がある根拠を示しておきましょう。
                         
 これは,真理獲得の方法に限定して考えた方が分かりやすいと思います。つまり『知性改善論』が,人間の知性が事物の真の認識を獲得する方法を示すことを主目的とした著作であると規定しておくのです。この規定はさほど無理があるとはいえないと思います。
 スピノザの哲学では,事物の真の認識は,神の真の認識から演繹的に流出することになっています。したがって,まずは神を真に認識しなければなりません。こうした理由からスピノザは,神が存在するということを証明することよりも,神を真に認識すること,いい換えれば神の十全な観念を形成することの方が重要であると考えていたのです。第一部定義六が十全に認識されるなら,第一部定理一一第三の証明によって,神の存在は必然的に帰結することになるからです。
 実際に『知性改善論』も,人間の知性がいかにして神を十全に認識し得るかという問題の解決に取り組んでいます。ところがその取組の中途で,断筆されてしまっているのです。しかもその中断のされ方が,いかにもトートロジーに陥っているかのようなのです。このゆえに,方法論自体に無理があるという解釈の余地が発生します。
 取組自体がトートロジーになってしまうのは,ある意味では必然です。というのは,ある方法が神を真に認識するための真なる方法であるとしたら,それが真なる方法であるということが,神の真なる認識から必然的に流出するのでなければなりません。よって神の真の認識以前に,どんな方法がそのための真なる方法であるかということを,知性は認識することができません。ところが取組はあたかもこの方法,神の真なる認識以前には獲得し得ない認識を獲得する方法を探求しているかのようなのです。
 もし方法論に無理があったとするなら,それはこの方法に限定されます。つまりこの方法が無理であるという点は,僕も同意します。

 ファン・ローンメナセ・ベン・イスラエルと会って話をしたのは,このときが初めてでした。ただローンにはベルナルドという名前の友人がいて,この人からメナセの話をよく聞かされていたといっています。
 レンブラントとメナセはかなり親しかった筈で,レンブラントからでなく,ベルナルドからとローンがいっているのは,一見したところ不自然に感じます。でも,その後でローンが付け加えている説明が真実であるなら,僕にはむしろ納得できることです。
 まず,ベルナルドもユダヤ人でした。そして産まれはふたりともポルトガルのリスボンでした。しかしハプスブルク家がポルトガルを支配するようになると,ユダヤ教徒に対する迫害,具体的には宗教裁判が行われるようになりました。そこでメナセもベルナルドも,この迫害から逃れるために,オランダへと移住してきたのです。スピノザの父が同じような理由でポルトガルから逃れてきたように,この時代には多くのユダヤ人がイベリア半島からオランダへと渡ってきています。つまりベルナルドとメナセは同じ苦難の時代を生きたユダヤ人の一世であったわけで,それならばローンにメナセについて詳しい話をするのが,レンブラントではなくそれ以前からメナセを知っていたベルナルドの方であったのは,よく理解できるところではないでしょうか。
 このベルナルドというのがどんな人物であったのかは残念ながら僕には分かりませんでした。単にローンの友人であったのか,それともレンブラントとも見知った人物であったのかも分かりません。ただ,ベルナルドはローンと共にニューヨークに渡ったようです。現地でアメリカ人と結婚し,オランダに戻ることはなかったと『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺義雄は説明しています。
 メナセとスピノザの関係についても,「レンブラントの生涯と時代」の中に出てきます。しかしここでは先に,『ある哲学者の人生』で,ナドラーが示している見解を紹介します。それは,メナセがスピノザの人生のある時点において,師であったということがあり得るというものです。この文章は解釈が必要でしょう。
コメント
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