スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宝塚記念&ウリエル・ダ・コスタ

2015-06-28 18:55:06 | 中央競馬
 中央競馬の上半期の大レースを締め括る第56回宝塚記念
 ゲート内で立ち上がった影響でゴールドシップが大きく遅れての発馬。どうやら今日はあまり走りたくなかったようです。逃げたのはレッドデイヴィス。単独の2番手にラブリーデイ。その後ろはトーセンスターダムとオーシャンブルーの併走。5番手はネオブラックダイヤ。ショウナンパンドラとヌーヴォレコルト,ワンアンドオンリーとトーホウジャッカルがそれぞれ併走で続き,ディアデラマドレが追走。カレンミロティック,ラキシス,トウシンモンステラでここまでほぼ一団。あとはアドマイヤスピカ,デニムアンドルビー,ゴールドシップがぽつんぽつんと追走。最初の1000mが62秒5という超スローペースでした。
 直線に入るとラブリーデイがレッドデイヴィスを追い抜いて先頭に。これらを目標に追ってきた馬たちを置き去りにして一旦は完全に抜け出しました。迫ってきたのは末脚を炸裂させた大外のデニムアンドルビー。しかしぎりぎりで残してラブリーデイが優勝。デニムアンドルビーがクビ差で2着。最内から脚を伸ばしたショウナンパンドラが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したラブリーデイは大レース初勝利。デビューから連勝した後,2歳から3歳にかけては重賞2着が3回。4歳の昨年はオープンで1勝。5歳の今年になって中山金杯,京都記念,前走の鳴尾記念と重賞を3勝。ここはゴールドシップ以外は能力的に大差がないメンバー構成。ゴールドシップが走らなければ近況から十分にチャンスがあると思われました。中距離タイプの馬で,これ以上の距離延長がプラスになることはないと思われます。父はキングカメハメハ。母の父はダンスインザダーク
                         
 騎乗した川田将雅騎手は安田記念に続いて大レース制覇。宝塚記念は初勝利。管理している池江泰寿調教師は先月のオークスに続く大レース制覇。第50回,53回に続く3年ぶりの宝塚記念3勝目。

 少年の質問に対してメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが激怒したのは本当のことだと思います。というのも,「バルーフBaruch」と怒鳴った後でメナセは,すぐに質問には答えず,お前は第二のウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaになりたいのか,と恫喝めいたことを言っているからです。
 ダ・コスタについて書けばそれだけで一冊の本ができ上がります。ここでは簡単な紹介にとどめましょう。
 ダ・コスタは1585年にポルトガルで産まれました。キリスト教徒でしたが,ユダヤ教に心酔。1612年にアムステルダムのユダヤ人居住区に住むようになりました。アブラハムという弟がいて,マアマドという,共同体の理事会の役職を一時的に務めていました。また学校の評議員の経験もあります。これらの役職はスピノザの父も務めていましたので,知り合いであった可能性が高いと思われます。
 アムステルダムに住むようになったダ・コスタは,ユダヤ人居住区のユダヤ教徒たちが,ユダヤ教の真の教えには背いているように思えました。結果的にダ・コスタはアムステルダムの指導的なラビたちに反抗するようになり,一時的にハンブルクに移ってラビを批判する内容の著書を出版,1618年に破門されます。
 ダ・コスタはその後でアムステルダムに戻りましたが,破門が解かれることはありませんでした。1623年にはアムステルダムの共同体によって破門の念押しをされます。その後,一旦は指導者たちと和解し,共同体への復帰を許されましたが,やはり共同体の教えを遵守するということはできず,1633年にそれまでより厳格な破門を言い渡されてしまいます。
 孤立無援となったダ・コスタは,1640年に改悛の意を表明。破門を解かれるのですが,このときの儀式があまりに屈辱的であったため,ピストルで自殺してしまいました。
 「レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt」では,話の流れでファン・ローンJoanis van Loonとメナセがダ・コスタについて話す場面があるのですが,これはユダヤ共同体内の事件ではなく,アムステルダム市民全体にとっての一大スキャンダルであったようです。つまりダ・コスタ事件は一般に広く知れ渡っていたと解してよいようです。
コメント
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