スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高松宮記念杯競輪&ジャン・ルイの手紙

2015-06-21 19:12:15 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された第66回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは平原-武田-佐藤の東日本,脇本-稲垣-村上の近畿で石井,岩津,松岡は単騎。
 武田がスタートを取って平原の前受け。4番手に石井,5番手に岩津,6番手から脇本,最後尾に松岡の周回。残り2周のホームで脇本が一気に発進。平原を叩いて前に。松岡が追えなかったため,4番手に平原,7番手に松岡,8番手に石井,最後尾に岩津という一列棒状。そのまま打鐘。平原がホームから発進。これを見た稲垣がバックの入口で番手発進。後ろで村上と平原が絡むと瞬時に自力を出した武田が稲垣の後ろに。直線で粘る稲垣を捕えた武田の優勝。1車身差の2着に稲垣。武田マークの佐藤が半車身差で3着。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は4月の西武園記念以来の優勝。ビッグはやはり岸和田競輪場で開催された昨年末の競輪グランプリ以来の優勝で通算14勝目。高松宮記念杯は2012年以来3年ぶりの2勝目。当地ではほかに2009年の日本選手権でも優勝。2011年にはがんばろう日本in岸和田での優勝もあります。平原に任せたレースだったわけですが,バックでやや平原が苦しくなったときに,すかさず動いて稲垣の後ろに入れたところが勝負のポイントでしょう。昨日の準決勝はすごい苦しいレースになったものの3着に入ったように,調子も上向いていたのだと思います。また最近になってとても強い内容の競走をするようになっていますから,まだ中心選手として活躍してくれるでしょう。

 ナドラーが推測したスピノザとメナセの関係のうち,メナセの私塾にスピノザが通っていたということを強く匂わせるような内容が「レンブラントの生涯と時代」に含まれています。ローンは一時期,ニューヨークで暮らしていましたが,その滞在中に,アムステルダムにいた友人のジャン・ルイから何通かの手紙を受け取りました。その手紙の一部が訳出されています。ローンが実際に手記に掲載したのがこの手紙だけであったのか,あるいはほかにもあったのかは僕には不明です。
 この手紙は検証しなければならない事柄を多く抱えています。
 まず,ジャン・ルイというのがどういう人物であったのかは僕には分かりません。訳出されている部分では,この人物についての詳細が何も触れられていないからです。ただ,ローンに手紙を出したくらいですから,ローンとかなり親しかったということだけは間違いないでしょう。
 次に,渡辺は前後の関係からして,この手紙で語られているのは1650年の3月頃のことだと推測しています。真実に近い推測なら,スピノザは17歳か18歳です。手紙の中に登場するスピノザと思しき少年は,16歳か17歳くらいと書かれているので,大きな矛盾はありません。
 手紙の内容の舞台となっているのはメナセ・ベン・イスラエルの自宅です。ルイは,レンブラントのことが気になったので,レンブラント邸の近所にあったメナセ邸を訪ねました。ルイがメナセ邸に入ったとき,メナセは数人の来訪を受けていたと書いています。この数人というのは,メナセが開講していた私塾の生徒であったと推測されます。というのは,手紙の内容の中心となる少年は,ルイに対して,メナセのことを「先生」と呼んでいて,そのときに,一人称単数ではなく一人称複数の主語を使っているからです。ということはこの少年のほかにも先生に対する生徒がいたということの証明であると僕は解します。さらに,「いつも」と語っていますから,授業はこのときだけのことではなかった筈です。よってルイがメナセ邸を訪れたとき,定期的な私塾が開かれていて,何人かの生徒が通ってきていたということだろうと僕は思います。
コメント
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