スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

別府八湯ゆけむりカップ&弁明書の内容

2015-06-30 18:55:27 | 競輪
 GⅠから中4日で開幕した別府記念の決勝。並びは浅井-金子の中部に渡辺,川村-川木の近畿に浦川,松岡-井上-橋本の西国。
 井上と浅井が飛び出しましたが,枠の差もあり誘導の後ろは井上が確保し松岡の前受け。4番手に浅井,7番手から川村で周回。残り2周のホームから川村がゆっくりと上昇。バックに入ってから松岡を叩いて打鐘。松岡が引いたので7番手になった浅井が発進。川村の後ろを狙うような動きになりましたが,川木が許さず。それでもホームですんなりと4番手に入ることができました。後方になってしまった松岡が動いたものの,バックの入口で浅井がこれを制して発進。川木の抵抗はあったものの乗り越え,ラインで出切って直線勝負。金子が差して優勝。浅井が4分の3車輪差の2着に粘り,1車身差の3着も渡辺で浅井ラインの上位独占。
 優勝した愛知の金子貴志選手は昨年8月の富山記念以来となる記念競輪8勝目。別府記念は初優勝。ここは浅井の力量が上位で,しかもかなり調子がよさそうでしたから,おそらく差すか残るかの勝負になるであろうと考えられました。打鐘の後,浅井が変に脚を使ってしまった影響もあったと思いますが,4番手からの捲りを楽に差したのですから,金子の調子もなかなかのものであったということでしょう。自力でも戦うことはできますし,強い選手の番手を回れるケースも多いので,優勝回数はまだ増やしていかれるものと思います。

 弁明書の内容については,後の『神学・政治論』に含まれるものが記されていたと考えている識者が多数です。発見されていない,おそらくは今後も発見されることはないであろう文書を詮索することは無意味かもしれません。ただ,僕はそうした推測というのは,妥当で合理的なものであると考えています。
                  
 「シナゴーグ離脱の弁明書」というタイトルから推測できるのは,そこにはスピノザがユダヤ人共同体から離脱する理由が説明されていたであろうということです。そしてその理由というのは,スピノザが重視していた哲学する自由と大きく関係していただろうと僕は考えます。『神学・政治論』は哲学する自由を踏みにじれば,国家の平和も損なわれるということを主張したものです。つまり弁明書のタイトルから連想されるものが『神学・政治論』にはあるといえると思います。
 哲学する自由がそれほど大切なものであるならば,それを認めない組織からはスピノザはむしろ自発的に離脱するでしょう。そして実際にスピノザがシナゴーグから破門された1656年の時点では,アムステルダムのユダヤ人共同体が,スピノザにとってはそういう組織になっていたのだと思います。したがって破門の理由は,スピノザの哲学および神学に関わる思想的側面にあったと僕は理解しています。
 1953年の時点で,ヨハン・デ・ウィットがホラント州の法律顧問となり,実質的にオランダ国家の主権者となっていました。このために当時のオランダは,ほかのヨーロッパ諸国と比較しても,はるかに思想的自由が認められてたといえます。ですから哲学する自由を重視するスピノザが,それを認めようとしないユダヤ人共同体から離脱しやすかった環境にもあったと思います。つまりスピノザは自身の哲学する自由を守るためには,「ユダヤ人」であるよりも「アムステルダム市民」である方が有利であると考えやすかったのだと思います。
 この推測は,ずっと後にスピノザがハイデルベルク大学教授の地位に招聘されたとき,それを断った理由ともリンクするといえるでしょう。基本的にふたつは,同じような原因から生じた結果であると僕は考えます。
コメント
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