スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プリンスオブウェールズステークス&メナセ・ベン・イスラエル

2015-06-18 19:08:08 | 海外競馬
 イギリス王室が主催するロイヤルアスコット開催2日目のプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1マイル2ハロン。
 スピルバーグは普通の発馬。控えて6番手の外を追走。隊列に変化がないままずっと外を回って直線に。外でしたから前を遮るものはありませんでしたが,伸びはなく,しかしばてるということもなくそのままの位置での入線。勝ち馬から概ね4馬身差の6着でした。
 条件戦では先行したこともありますが,控えて末脚勝負に徹するレースで上位まできましたので,レース振りはこういうふうになるでしょう。追込み馬ですがスローペースの瞬発力勝負はむしろ得意なので,ペースの影響が大きかったとは思いません。ただ,もう少し伸びてもいいかなという印象はあります。ずっと外を回ったロスもあったでしょうし,あるいはもっと控えてしまってもよかったかもしれません。また,良績が東京競馬場に集中しているように,左回りの方が走りやすいのかもしれません。右回りだった前走もそうだったのですが,このレースも直線では内に行きたがる素振りを見せていました。

 「レンブラントの生涯と時代」を読むと,ファン・ローンJoanis van Loonのほかにもスピノザとレンブラントの間に共通の知人が存在していたと分かります。そのうちのひとりは,スピノザの人生の中では,ローンよりも重要だと思われる人物かもしれません。
                         
 ローンは1643年4月から1650年の7月まで,当時はオランダの植民地であった現在のニューヨークで過ごしています。旅立つ前に,レンブラントから会食の誘いがありました。ローン自身の目論見では,これほど長くアメリカに滞在するつもりはなかったのですが,それでも長く会えなくなることは間違いありません。なのでレンブラントは旅立つ前に,ローンに会っておきたかったということだと推定されます。
 ただしこの会食はふたりきりで催されたものではありませんでした。場所に関してはアントニー・ブレーストラートの家と書かれてあります。僕はこれを人の名前と思っていたのですが,どうやら地名のようです。現在はレンブラントハウス美術館となっているとのことですので,おそらくレンブラントが住んでいた家だったのだろうと思われます。
 ローンは予定よりも遅れて到着したようで,そのときにはすでにローン自身の友人やレンブラントの友人が揃っていました.そのレンブラントの友人の中に,一目でラビであると分かったユダヤ人がいたとローンは書いています。それがメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelでした。ローンは有名な律法学者と形容していますので,非ユダヤ人にも名の知れた存在であったのでしょう。
 レンブラントとメナセはやはりとても近くに住んでいたようで,数年前にレンブラントはメナセのエッチングを製作したとローンは記しています。レンブラントの死後,スピノザはレンブラントのエッチングをローンに対して称賛したわけですが,メナセをモデルとしたエッチングは,スピノザ自身も見たことがあった可能性があると指摘できます。というのも,このエッチングはユダヤ教会員の間では飛ぶように売れたとローンは書いているからです。ローンはレンブラントを敬愛していましたから,オーバーな表現かもしれませんが,虚偽ではないでしょう。
コメント
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