スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スクリーンヒーロー&スピノザとレンブラント

2015-06-12 19:23:06 | 名馬
 日曜日の安田記念モーリスが大レース初勝利をあげました。父はスクリーンヒーローです。
 スクリーンヒーローの父はグラスワンダーで祖母がダイナアクトレス。4代母がマジックゴディスになります。
 デビューは2歳の11月。競走歴初期はダートを使われ,3歳2月に2勝目をあげました。初芝となったのがスプリングステークスでこれは5着。続いてダートのオープンを2着。これ以降は芝路線に転じ,7月のラジオNIKKEI賞で2着,9月のセントライト記念は3着に入っています。
 一頓挫あり,復帰したのは4歳の夏。復帰戦の1000万特別を勝った後,オープン,準オープンを連続2着。格上挑戦したアルゼンチン共和国杯で重賞初制覇を達成すると,その勢いのままジャパンカップも制し,大レースの勝ち馬の仲間入りを果たしました。続く有馬記念は5着。この程度の成績で代表馬に選出されるのは困難なのですが,この年は牝馬が大活躍だったこともあり,JRA賞の最優秀4歳以上牡馬に選出されました。
 復帰戦は阪神大賞典で4着。天皇賞(春)は2番人気に推されるも14着と大敗。宝塚記念は5着でした。
 秋は天皇賞(秋)で復帰。ここはインを立ち回る好騎乗でしたが惜しくも2着。ジャパンカップは13着と大敗を喫し,引退しました。
 ジャパンカップを勝ったくらいですから一流馬には違いありません。しかしその他の成績からみて,超一流とは少し差がある並の一流馬といったところです。ところがこのクラスの種牡馬としてはちょっと驚くくらいの良績で,モーリスの世代が初年度産駒であることを考慮に入れると,今後は配合相手にも恵まれるかもしれず,さらなる活躍が可能であるかもしれません。自身は芝の中長距離馬でしたが,祖母のダイナアクトレスは本質的にマイラーでしたから,その血も種牡馬として生きているような気がします。

 著名人のように知人の数が多い場合,共通の知人が存在する可能性も高くなることは,スピノザの場合には実証することもできます。ここではフェルメールJohannes Vermeerと並んでこの時代のオランダの画家を代表するレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnとスピノザの関係をみてみます。レンブラントを例に採用するのは,確たる資料が多く残存しているからです。なお,レンブラントは1606年に産まれ,1669年に死んでいます。スピノザよりは26年前に産まれていますが,重複した時代を生きています。
                         
 まず最初に,次の点に注意してください。スピノザがまだユダヤ人共同体から破門される以前,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人居住区に住んでいた当時,レンブラントは目と鼻の先といっていいほどの場所に住んでいました。スピノザとレンブラントが知り合いであったという確証はないと考えるのが僕は妥当だと思っていますが,桜井直文は現代思想1987年9月号に掲載されている「スピノザ雑考」という論文で,お互いがよく知っていたことは確実だとしています。もっともこれは,単に知っていただけで,会ったという意味ではないとも読めるようになっています。また,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でナドラーSteven Nadlerも,レンブラントとスピノザに関しては一定の長さの説明をしていて,1650年代のある時点において,スピノザとレンブラントが出会ったことは,憶測としてはなきにしもあらずのことであるといっています。
 しかし,これらの見解というのは,歴史的条件と地理的条件から,スピノザとレンブラントの関係を説明しようとしているものです。僕の現在の目的は,著名人の間には共通の知人が存在する可能性が高く,その共通の知人を介することによって,その著名人同士が知己になる可能性も高くなるということを,実証的な仕方で解明しようというものです。ですからスピノザとレンブラントが実際に知己の関係にあったか否かは問題ではありません。また,歴史的条件と地理的条件は,充足されなければならない条件ではありますが、スピノザとレンブラントの場合,地理的条件がきわめて高いということは,ここでは無視します。それはむしろ現在の目的の邪魔になるからです。
コメント
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