25周年を迎える大井競馬場での夜の競馬は,予定より遅れて今週から開始。最初の南関東重賞となったのが第56回羽田盃。内田博幸騎手が負傷したためキスミープリンスは柴山雄一騎手に騎手変更。
ゴーディーが逃げ,2番手にブラックサンダー。クラーベセクレタは3番手から。最初の800mは49秒5でミドルペース。
3コーナー手前あたりからブラックサンダーの手応えがやや怪しくなり始め,クラーベセクレタが自然と2番手。そして直線に入るとゴーディーも交わして先頭に。そこからは後ろを引き離していく一方となり,7馬身差をつける圧巻の優勝。クラーベセクレタについていこうとしたドラゴンウィスカーやキスミープリンスは苦しくなり,それらの後ろから追い込む形となったシングンボスとヴェガスが2,3着。
優勝したクラーベセクレタは前哨戦の京浜盃の優勝馬。これで転入後は無敗で南関東重賞4連勝。今年は牡馬勢に強力な馬がいないということもありますが,予想以上の圧勝になりました。東京ダービーに向うことになると思いますが,当然ながら最有力候補でしょう。母の父にタイキシャトル。馬名はスペイン語で秘密の鍵。
騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先週のかしわ記念を制覇。羽田盃は一昨年以来の2勝目。管理している船橋の川島正行調教師はやはり一昨年以来の羽田盃制覇でこちらは3勝目。
第二部定理四〇の4つの意味のうち,第四の意味というのが示しているところは,もしも人間の精神のうちにある混乱した観念が結果として形成されるならば,その原因となっている観念は,その同じ人間の精神のうちにすでにある別の混乱した観念であるということです。このことは一般的にそうであるわけですから,具体的などの個々の混乱した観念がある人間の精神のうちに発生するという場合にも妥当します。したがって,もしも人間の精神のうちに,思惟ないしは延長の属性の混乱した観念が発生するということがあるとすれば,その属性の観念の原因は,その人間の精神の一部をすでにその時点において構成していたある混乱した観念であるということでなければなりません。いわばこれが,人間が属性の混乱した観念を形成するときのメカニズムであるということになるわけです。
ところが,そもそも『エチカ』には,このこと自体を否定するような定理があるのです。それが第一部定理一〇です。
「実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ」。
この定理は,第一部定義四により,属性というのは実体の本性を構成しているものであり,第一部定義三により,実体というのはそれ自身によって考えられなければならないものであるということによって,明白であるといえるでしょう。とくにこの場合は,第一部定義四を認識論的に理解した場合により明確です。なぜなら,実体というのがそれ自身によって認識されるようなものであるとするなら,当然のごとくその実体の本性というのもそれ自身によって,つまりほかの観念ないしはもっと広く思惟の様態に依存することなく認識されなければならないのは当然だからです。これは第二部定義二により,ある事物の本性というのはその事物がなければ考えられ得ないものであるけれども,逆にある事物というものはその事物の本性をほかにおいては考えることができないものであるということから明らかでしょう。
なお,現在の論考とは少し離れますが,この定理で実体といわれているのは,第一部定義三の実体であると理解するよりありません。第一部定義三の立場は名目的であると理解するよりありませんから,この定理は実在的な意味をもっているわけではなく,名目的であると理解しなければならないでしょう。
ゴーディーが逃げ,2番手にブラックサンダー。クラーベセクレタは3番手から。最初の800mは49秒5でミドルペース。
3コーナー手前あたりからブラックサンダーの手応えがやや怪しくなり始め,クラーベセクレタが自然と2番手。そして直線に入るとゴーディーも交わして先頭に。そこからは後ろを引き離していく一方となり,7馬身差をつける圧巻の優勝。クラーベセクレタについていこうとしたドラゴンウィスカーやキスミープリンスは苦しくなり,それらの後ろから追い込む形となったシングンボスとヴェガスが2,3着。
優勝したクラーベセクレタは前哨戦の京浜盃の優勝馬。これで転入後は無敗で南関東重賞4連勝。今年は牡馬勢に強力な馬がいないということもありますが,予想以上の圧勝になりました。東京ダービーに向うことになると思いますが,当然ながら最有力候補でしょう。母の父にタイキシャトル。馬名はスペイン語で秘密の鍵。
騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先週のかしわ記念を制覇。羽田盃は一昨年以来の2勝目。管理している船橋の川島正行調教師はやはり一昨年以来の羽田盃制覇でこちらは3勝目。
第二部定理四〇の4つの意味のうち,第四の意味というのが示しているところは,もしも人間の精神のうちにある混乱した観念が結果として形成されるならば,その原因となっている観念は,その同じ人間の精神のうちにすでにある別の混乱した観念であるということです。このことは一般的にそうであるわけですから,具体的などの個々の混乱した観念がある人間の精神のうちに発生するという場合にも妥当します。したがって,もしも人間の精神のうちに,思惟ないしは延長の属性の混乱した観念が発生するということがあるとすれば,その属性の観念の原因は,その人間の精神の一部をすでにその時点において構成していたある混乱した観念であるということでなければなりません。いわばこれが,人間が属性の混乱した観念を形成するときのメカニズムであるということになるわけです。
ところが,そもそも『エチカ』には,このこと自体を否定するような定理があるのです。それが第一部定理一〇です。
「実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ」。
この定理は,第一部定義四により,属性というのは実体の本性を構成しているものであり,第一部定義三により,実体というのはそれ自身によって考えられなければならないものであるということによって,明白であるといえるでしょう。とくにこの場合は,第一部定義四を認識論的に理解した場合により明確です。なぜなら,実体というのがそれ自身によって認識されるようなものであるとするなら,当然のごとくその実体の本性というのもそれ自身によって,つまりほかの観念ないしはもっと広く思惟の様態に依存することなく認識されなければならないのは当然だからです。これは第二部定義二により,ある事物の本性というのはその事物がなければ考えられ得ないものであるけれども,逆にある事物というものはその事物の本性をほかにおいては考えることができないものであるということから明らかでしょう。
なお,現在の論考とは少し離れますが,この定理で実体といわれているのは,第一部定義三の実体であると理解するよりありません。第一部定義三の立場は名目的であると理解するよりありませんから,この定理は実在的な意味をもっているわけではなく,名目的であると理解しなければならないでしょう。