システムを再セットアップしました。ただ、寿命なのか動作が不安定なところがあります。今後も更新が滞るかもしれませんので予めご了承ください。
今日は和歌山記念の決勝でした。
5対2対2という変則的な3分戦。石橋選手が前受けし兵藤選手が続く東日本、澤田選手と前田選手の近畿、松尾選手と山内選手の中部に同期の小野選手が続き、さらに有坂選手と野田選手の北日本もここを追走しての周回。
残り2周のホームから松尾選手が上昇すると、澤田選手も動いてバックでは一旦先頭に。これを松尾選手が打鐘から叩いて先行。だれも粘らなかったので6番手に澤田選手、8番手に石橋選手で一列棒状の展開になりました。バックから澤田選手の捲り。しかし山内選手が落ち着いて対処し、十分に引きつけておいて番手から発進。結局、直線もそのまま粘りきって優勝。2着にもマークの小野選手が続きました。バック9番手から一旦内に入り、直線では中ほどを鋭く伸びた兵藤選手が3着に入線しています。
優勝した愛知の山内卓也選手は一昨年の西王座戦でGⅡは制覇していますが記念競輪はこれが初優勝。ここは山崎選手や市田選手という有力選手が脱落した上に、展開にも多分に恵まれました。
今日から王将戦の第一局が指されています。挑戦者の佐藤棋聖が先手となり、羽生王将の一手損角換り。このまま先手が攻めきれるのかどうかという展開です。このふたりはライバルですが、ここまで羽生王将が80勝38敗と大きく勝ち越しています。
なぜ本性essentiaの定義Definitioが、単にある事物にとってそれがなければあることも考えるconcipereこともできないというだけでなく、本性にとっても事物がなければあることも考えることもできないという第二部定義二のようなものでなければならないのか、これを『エチカ』に訴えて考えるなら、その根本の部分は第一部定理一四になるだろうと僕は考えています。
「神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない」。
前回のテーマとした第一部定理五の中で、僕はその定理Propositioが名目的なものであると考えているということを何回か述べましたが、これはその根拠となっている定理でもあります。というのも、スピノザはここで存在する実体substantiaは神Deusだけであると明言しているわけですから、複数の実体が存在するということはあり得ません。しかし先述の第一部定理五は、明らかに複数の実体の存在existentiaを前提としていますから、これは名目的にしか考えられないと僕は思うからです。しかしもちろん今回はこうしたことは問題にはなりません。どんな事物にもそれに固有の本性がある以上、本性というのは実在的にとらえられるべきであり、一方、この第一部定理一四もまた、完全に実在的な定理であると考えられなければならないからです。
今日は和歌山記念の決勝でした。
5対2対2という変則的な3分戦。石橋選手が前受けし兵藤選手が続く東日本、澤田選手と前田選手の近畿、松尾選手と山内選手の中部に同期の小野選手が続き、さらに有坂選手と野田選手の北日本もここを追走しての周回。
残り2周のホームから松尾選手が上昇すると、澤田選手も動いてバックでは一旦先頭に。これを松尾選手が打鐘から叩いて先行。だれも粘らなかったので6番手に澤田選手、8番手に石橋選手で一列棒状の展開になりました。バックから澤田選手の捲り。しかし山内選手が落ち着いて対処し、十分に引きつけておいて番手から発進。結局、直線もそのまま粘りきって優勝。2着にもマークの小野選手が続きました。バック9番手から一旦内に入り、直線では中ほどを鋭く伸びた兵藤選手が3着に入線しています。
優勝した愛知の山内卓也選手は一昨年の西王座戦でGⅡは制覇していますが記念競輪はこれが初優勝。ここは山崎選手や市田選手という有力選手が脱落した上に、展開にも多分に恵まれました。
今日から王将戦の第一局が指されています。挑戦者の佐藤棋聖が先手となり、羽生王将の一手損角換り。このまま先手が攻めきれるのかどうかという展開です。このふたりはライバルですが、ここまで羽生王将が80勝38敗と大きく勝ち越しています。
なぜ本性essentiaの定義Definitioが、単にある事物にとってそれがなければあることも考えるconcipereこともできないというだけでなく、本性にとっても事物がなければあることも考えることもできないという第二部定義二のようなものでなければならないのか、これを『エチカ』に訴えて考えるなら、その根本の部分は第一部定理一四になるだろうと僕は考えています。
「神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない」。
前回のテーマとした第一部定理五の中で、僕はその定理Propositioが名目的なものであると考えているということを何回か述べましたが、これはその根拠となっている定理でもあります。というのも、スピノザはここで存在する実体substantiaは神Deusだけであると明言しているわけですから、複数の実体が存在するということはあり得ません。しかし先述の第一部定理五は、明らかに複数の実体の存在existentiaを前提としていますから、これは名目的にしか考えられないと僕は思うからです。しかしもちろん今回はこうしたことは問題にはなりません。どんな事物にもそれに固有の本性がある以上、本性というのは実在的にとらえられるべきであり、一方、この第一部定理一四もまた、完全に実在的な定理であると考えられなければならないからです。