スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高松宮記念杯競輪&有用

2023-06-18 19:32:15 | 競輪
 岸和田競輪場で争われた第74回高松宮記念杯の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,松井‐郡司の神奈川,脇本‐古性‐稲川の近畿,松浦‐山田の西国。
 発走後は牽制になりましたが,脇本がスタートを取って前受け。4番手に松浦,6番手に松井,8番手に新山で周回。残り3周のバックの出口から新山がゆっくりと上昇を開始。誘導との車間を開けていた脇本をホームで叩きにいきましたが,脇本が突っ張りました。4番手に松浦,6番手に新山が下り,松井が8番手の一列棒状になって打鐘。バックから松浦が発進。スピードは悪くありませんでしたが,古性が執拗に牽制して松浦は失速。松浦を止めた古性が直線の入口から踏み込んで優勝。インを回って,直線は古性と稲川の間に突っ込んだ佐藤が1車身半差で2着。古性マークの稲川は4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でGⅠ5勝目。ビッグは6勝目。高松宮記念杯は昨年からの連覇で2勝目。2016年12月に当地の記念競輪の優勝もあります。このレースは前で受けた脇本が引いて捲りを狙うのではなく,突っ張り先行を選びましたので,6番手以下になってしまった選手は優勝のチャンスが著しく失われました。圏内になった松浦の捲りはよいスピードでしたが,牽制して自分より最後まで前に出させず,そのまま踏み込んでの優勝ですから,番手選手としてとても価値のある優勝になったのではないかと思います。

 これについてはまず次の点から考えなければなりません。
                                   
 ある事柄が合倫理的であるといわれるのは,それが有徳的であるときの振る舞いに一致するからです。有徳的であるということは,理性ratioに従うということです。いい換えればそれは精神の能動actio Mentisから生じます。しかるに第三部定理五九により,そこから生じる感情affectusは喜びlaetitiaであるか欲望cupiditasであるかのどちらかであって,悲しみtristitiaではあり得ません。よって,何らかの感情がその感情を抱いた人間に何らかの振る舞いをさせるとき,その振る舞いが理性から生じる感情によって決定される振る舞いと一致するのは,喜びか欲望の受動感情だけであって,悲しみから生じる感情は,理性に従うことによって決定される振る舞いへとは人間を決定しないようにみえます。よって,ある感情が合倫理的であるといわれるとすれば,それは喜びか欲望のどちらかであって,悲しみは合倫理的ではあり得ない,もっといえば人間が悲しみによって決定される振る舞いは,すべからく合倫理的ではあり得ないということになるでしょう。
 ところが,このことは成立しないのです。したがって,愛amorが一般的に合倫理的な感情であり,憎しみodiumは一般的に非倫理的な感情であるといわれるとき,それは愛が喜びであり憎しみが悲しみであるからというわけではないのです。これは重要なことなので,分かりやすい一例を示しておきます。
 スピノザは第四部定理五〇で,人間が理性の導きに従っている場合は憐憫commiseratioは悪malumであって無用だといっています。このことの根拠になるのは,第三部諸感情の定義一八にあるように,憐憫は悲しみの一種であるということです。しかしこの定理Propositioは,憐憫が悪であったり無用であったりすることには条件が付せられていて,それは人間が理性に従っているということです。ですから,理性に従っていない場合は,憐憫というのは悪であるとはいえないし無用であるとはいえない,むしろ有用であるといえるのです。しかもこの場合の有用というのは,ここで不安metusが有用だといっているのと同じではありません。不安が有用だといっているのは僕であって,第四部定理五四備考でスピノザがそういっているわけではありません。

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