スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

五稜郭杯争奪戦&比較

2021-05-18 19:00:49 | 競輪
 函館記念の決勝。並びは守沢‐佐藤の北日本,野口‐松谷の南関東,古性‐村上‐椎木尾の近畿,松浦-柏野の山陽。
 松谷がスタートを取って野口の前受け。3番手に松浦,5番手に古性,8番手に守沢という隊列で周回。残り3周のバックから守沢が上昇。古性が続いたので,内が4人,外が5人の併走で残り2周のホームへ。誘導が退避するタイミングで守沢が前に。古性はまだ佐藤を追い,松浦が椎木尾の後ろにスイッチ。引いた野口が8番手の一列棒状となってスローペースで打鐘。守沢が成り行きで逃がされるのかと思いましたが,打鐘後のコーナーで古性が発進。ホームで守沢を叩いて先行。松浦が追って4番手を確保しました。バックから松浦が発進。村上の牽制を乗り越え,直線の入口では古性の前に。ただこの牽制があって柏野が続けなかったので,3番手以下は大混戦。直線先頭の松浦がそのまま後ろを離して優勝。直線で柏野と守沢の間に進路を取った佐藤が鋭く伸びて2車身差の2着。逃げた古性が4分の3車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は日本選手権競輪からの連続優勝。その前の武雄記念も勝っていてこれで3開催連続優勝となる記念競輪11勝目。函館記念は初優勝。このレースでは脚力は断然の上位。日本選手権の直後の開催でしたので,疲労がやや心配でしたが,終わってみれば快勝でした。古性が発進したときにうまく続いて,4番手を確保したのが最大の勝因でしょう。

 スピノザの哲学における善悪は,比較上の概念notioです。もっともこのことは,スピノザの哲学にだけ該当するわけではありません。たとえばひとつのものしか存在しないなら,そのものについて善bonumとか悪malumとかいうことはできません。ふたつのものがあって始めて,一方が善であり他方が悪であるという認識cognitioが可能になるからです。とはいえスピノザの哲学では,第四部定理八により,善は喜びlaetitiaの認識であり,悪は悲しみtristitiaの認識です。ですからある人間Aが現実的に存在しているとして,Aに喜びを与えるXがあるとすれば,Xはそれ自体でAにとっての善です。逆に,Aに悲しみを齎すYがあるとすれば,YはAにとっての悪であるということになります。つまりこの点からは,善悪は必ずしも比較上の概念であるとはいえないのであって,それ自体で善なるものあるいはそれ自体で悪なるものが存在するということはできます。
                                   
 善悪が比較上の概念であるというときに重要なのは,たとえばAにとってYが悪で,ZもまたAに対して悲しみを齎すがゆえに悪である場合に,Yが齎す悲しみの方がZに齎される悲しみよりも小さいなら,この比較の上では小さな悪であるYは善とみなされ,Zは悪とみなされるという点にあります。同様に,Xが善でPもまたAの喜びを与えるがゆえにAにとっての善であるときに,Pによって与えられる喜びの方がXから与えられる喜びよりも大きいのであれば,Pは善ですがXは悪であるとみなされるのです。要するに,大きな悲しみを阻害する小さな悲しみは,悲しみであっても善であり,大きな喜びを阻害する小さな喜びは,喜びであっても悪なのです。これは善悪が喜びおよび悲しみの認識であるがゆえに,必然的にnecessario帰結する事項であるといえます。
 このとき,たとえば地球の温暖化が悪で,それに対策を講じることは善であるとしても,その講じられる対策が自身に悲しみを齎すのであれば,それはその人によって悪とみなされます。これはそれ自体でそうみなされるのです。そしてそれが,温暖化の対策を講じることによって阻害される悲しみより大きな悲しみであったなら,比較の上では講じられる対策が悪とみなされることになります。
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