スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑯&希望と愛

2023-06-20 19:13:39 | NOAH
 天龍の雑感⑮の最後でいったように,天龍源一郎によるジャンボ・鶴田というプロレスラーについての総評をみていきます。
 天龍は鶴田の基礎として,バスケットボールをあげています。天龍は相撲をやっていたのですが,バスケットボールというのは長時間にわたって走り回る有酸素運動であって,その点で大きな相違があると天龍はみています。プロレスでは長時間にわたる有酸素運動によって培われるようなスタミナは重要ですから,これは的を射た意見であると思います。ただ鶴田のスタミナがそれだけで養われたのかどうかは分かりません。鶴田はその後にレスリングをやるようになり,これはプロレスラーとして大きなバックボーンとなりました。これは格闘技経験という意味でのバックボーンになりますが,やはりプロレスのバックボーンとなる格闘技としては,レスリングが最も優れているのは当然でしょう。
 天龍は,鶴田がそのことで一定程度の自信をもって全日本プロレスに入団したとみています。全日本プロレスに就職するといった鶴田の発言から,こうした自信は鶴田にはあったと僕は思います。この発言は,自分の就職先として最適なのはプロレスラーであるという意味が含まれているように思うからです。
 レスリングはプロレスのバックボーンとしては最適ですが,プロレスそのものではありません。だからすぐにデビューすることができるというわけではなく,プロレスとはどういうものであるかということを学ぶ必要があります。その学習の中で鶴田はプロレスラーというのは自分にとって与しやすい職業であるという感触を得ていったのだと天龍はみています。鶴田には器用さがあって,その器用さがプロレスでも生きました。この器用さというのは,いわばプロレスラーにとって必要な器用さといえると思います。鶴田は若い頃は善戦マンといわれましたが,それは器用さの証明であると天龍は言っています。もしも器用さがなければ,いい試合になるか悪い試合になるかのどちらかであって,善戦マンにはなり得なかったというのが天龍の見解で,これは確かにそうだと思えるものです。鶴田がプロレスラーとして器用に立ち回れる面があったので,対戦相手も試合がやりやすかったのでしょう。

 希望spesは能動actioではあり得ません。したがって,喜びlaetitiaの一種ではあるのですが,有徳的であることができる感情affectusではありません。ただし,第四部定理五四備考にあるように,害悪より利益を齎すことが多い感情なので,スピノザによって絶対的に否定されるということはないのです。よって,現実的に存在するある人間Aが,Bに対して憐憫commiseratioを感じることによって,Bに対して愛amorを感じるようになるとすれば,それは合倫理的であるといえます。これと同じように,もしも現実的に存在するある人間が,希望を感じることによって他人を愛するようになるならば,それもまた同様に合倫理的であるといえることになります。そしてこれらの場合には,その人間は全面的に倫理的であるということができるのです。
 しかしこれとは別の場合があります。
                                   
 第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,自己愛philautiaの一種とされています。この自己愛というのは,第三部諸感情の定義二五の自己満足Acquiescentia in se ipsoの一種です。したがって高慢というのは喜びの一種であることになります。しかし高慢の定義Definitioから明らかなように,この感情は正当以上に感じられている自分の表象像imagoがなければあることも考えるconcipereこともできない感情,つまり自分についての混乱した観念idea inadaequataがなければ生じ得ない感情ですから,理性ratioから生じるということはありません。いい換えればそれは受動passioです。この定義で自己満足といわれずに自己愛といわれているのは,スピノザは受動的な自己満足についてはそれを自己愛というからです。つまりある感情は自己愛の一種であれば,理性からは生じ得ない喜びであるということになるのです。よって,理性からは生じ得ない喜びであるという点では,高慢は希望に一致します。
 次に,高慢から愛が生じ得ないのかというとそんなことはありません。第四部定理五七にあるように,高慢な人間は追従の徒や阿諛の徒adulatorが現実的に存在することを愛するのですから,自身にとっての阿諛追従の徒については,かれらを愛することになるからです。このとき,それを個別の愛,つまり現実的に高慢であるAという人間がいて,このAの阿諛追従の徒であるBを愛するとき,このAのBに対する愛は合倫理的です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする