スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悪役商会&ライプニッツの不安

2015-09-20 19:05:56 | NOAH
 ラッシャー・木村が馬場を兄貴と呼ぶことによって結成された義兄弟タッグ。最初のうちは世界最強タッグ決定リーグ戦に出場したり,世界タッグのタイトルに挑戦したりもしていましたが,そのうちに自然な形で興行の前半戦の最後の試合を務めるようになりました。このチームが結成される以前,まだ国際血盟軍が存在した頃は,馬場&○○対木村&鶴見という試合がほとんどの会場で組まれ,それは概ね前半戦のラストでしたから,本来あるべき位置に戻ったということになります。
 この義兄弟タッグに対抗するチームとして結成されたのが悪役商会。永源遥と大熊元司が中心で,後に渕正信も加わりました。初期の頃は馬場&木村&○○対永源&大熊&○○という6人タッグがほとんど。馬場のチームに加わることが多かったのはマイティ・井上や百田光雄で,悪役商会側には渕が入っていることもありましたし,ほかに菊地や泉田も入っていたと思います。悪役商会はショッキングピンクをチームカラーにしていました。渕は最初のうちは黒いタイツで試合をしていましたが,あるとき,リング上でその黒いタイツを脱いだら下にピンクのタイツを履いていたという仕方で,このチームカラーに染まりました。僕が最初は渕は悪役商会ではなかったというのは,本当の意味で入会したのはこのときだったと判断するからです。菊地はピンクのコスチュームでは戦わなかったと思いますが,泉田はピンクでした。でもそれは大熊が死んだ後だったかもしれません。
 義兄弟タッグと悪役商会の試合は,決まったパターンがあったのですが,いつ観戦しても面白かったです。試合のリード役は今から考えれば永源ではなかったかと思うのですが,そうであったら永源の才能はなかなかのものであったと評価しなければならないと思います。
 当時の全日本プロレスは年間試合数が多く,必然的に地方での興行も多くありました。たぶんそういった会場に足を運ぶファンの中には,年に何度もプロレスをライブ観戦できないという人が多かったと思います。おそらくそういう人たちにとっては,僕などよりもこの試合をずっと楽しめたのではないでしょうか。

 シュラーならばスピノザの死に際して,遺品となるべき金銭や小刀を盗んだとしてもおかしくないと多くの識者が考えているとしても,それが誤解である可能性はあります。しかしもしも本当にシュラーがそのような人物であったとしたら,かなり貪欲な人間であったと理解できることになります。つまり僕は大方の識者のシュラー評に基づいて,シュラーならば『エチカ』の草稿に関連しても,一儲けしようと思い立って不思議のない人物であったと解するのです。
 ライプニッツが遺稿集に関するシュラーの力量をどの程度まで信頼していたかは不明です。ただ結果だけでいえば,それがライプニッツを十分に満足させるものでなかったことは確かだと思います。ライプニッツがスピノザに宛てた1通の書簡と,それに対するスピノザの返信が遺稿集には含まれていたからです。
 もっとも,後にシュラー自身がとりなしたように,この書簡は光学に関連するものでしたから,それほど重大ではなかったのかもしれません。ただ,スピノザからの返信には,秘密裏に文通を継続するための提案が明らかに含まれていました。さらにチルンハウスがシュラーを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの可否をスピノザに問うた書簡の中には,神学および哲学に関してふたりには文通した事実があることが書かれていましたし,ライプニッツが『神学・政治論』に高い評価を与えたとも記されていました。こうしたことが暴露されれば,宮廷人としてのライプニッツの立場を危機に陥れる可能性が十二分にあったといえます。ですからライプニッツにとっては,光学に関連するやり取りがスピノザとの間にあったということが明るみに出たことよりも,こちらの方がもっと大きな問題であったかもしれません。それでも実際に神学および哲学に関連した書簡が掲載されなかっただけでも,ライプニッツは喜ぶべきであったともいえるでしょう。
                         
 これでみれば分かるように,スピノザの遺稿集が出版されるということ自体が,ライプニッツには不安の種であったに違いありません。『宮廷人と異端者』の中には,この当時のライプニッツの行為に,驚くような記述がされています。
コメント
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