スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

シャートフ&アムステルダム滞在

2024-04-22 19:29:57 | 歌・小説
 『ドストエフスキー 黒い言葉』の第十一章3節で,シャートフにとってのキリスト教がどのようなものであったのかということに関する考察がなされています。『悪霊』に登場する人物のうち,シャートフについてはこのブログではまだ詳しく説明していませんから,先にシャートフがどのような人物として『悪霊』に登場しているのかということを説明しておきましょう。
                                        
 『悪霊』の主人公はスタヴローギンですが,スタヴローギンというのは裕福な家庭の育ちであって,下僕がいます。シャートフはスタヴローギンの一家に使える下僕の息子という設定になっています。物語上の設定での年齢ははっきりとしませんが,亀山は27歳か28歳であるとしています。これは何らかの根拠があってのものだと思われますので,僕もそのように解釈します。学生時代に社会主義思想に接触したシャートフは,その思想の虜となります。つまり学生時代は社会主義者であったと理解して間違いありません。ただし後に転向して,亀山がいうところのロシア・メシア思想に心酔するようになりました。僕の解釈ではシャートフは民族主義者なのですが,亀山がいうロシア・メシア思想というのは,ロシア民族の他民族に対する優越性を含んでいると解することができますから,亀山によるシャートフ像と,僕のシャートフ像の間には,相違よりも一致が多くみられるというように理解してもらって大丈夫なのではないかと思います。このシャートフの民族主義が,神と結びついていくのですが,このことはまた別にみていくことにします。
 このロシア・メシア思想というのが重要なのは,ドストエフスキー自身の思想と関係していると思われる点です。ドストエフスキーはロシアの大地ということを自身の思想としてもまた小説の中でも力説することがあるのですが,それはある意味ではドストエフスキーによるロシア・メシア思想であるといえなくもないからです。亀山はシャートフという人物はドストエフスキーの最晩年の思想的境地を先取りするといっていて,この時点ではドストエフスキーはそうした境地に達していなかったとみているわけですが,僕は必ずしもそうとはいえないのではないかと思います。たとえば『罪と罰』でソーニャがラスコーリニコフに大地にキスをするように要求するとき,地球の大地ではなくロシアの大地という意味が含まれているとみることもできると思うからです。

 テムズ川で足止めされてしまったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,その間に言語,自然学,数学についてのいくつかの小論を執筆し,スピノザとの面会に備えて一連の覚書と質問事項を準備したと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。ナドラーSteven Nadlerは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは何らかの方法で『エチカ』の手稿をライプニッツに見せたので,ライプニッツはその内容のほとんどを知っていたと想定しています。ただ,ナドラーは史実として確定している出来事に関しては断定的に記述するのですが,この部分はそうとしか思われないという記述になっていますので,史実として確定する必要はありません。実際にナドラーはこの部分に注解をつけていて,そこにはフリードマンGeorges Friedmannによる,この頃にはライプニッツは『エチカ』の内容にほとんど精通していなかったという見解が示されています。僕はナドラーよりもフリードマンの見解に近く,チルンハウスはライプニッツに『エチカ』の手稿を見せなかったどころか,それを自身が所持しているということさえ教えなかったのではないかと想定していますが,僕の想定もあり得るということは,ナドラーは全面的には否定しないと思われます。
 ライプニッツはこの後でオランダに到着したのですが,すぐにスピノザと面会したわけではなく,アムステルダムAmsterdamに1ヶ月ほど滞在しました。ナドラーはその間にライプニッツがフッデJohann Huddeと会ったこと,そしてシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったことを確定的な出来事として記述しています。このときにシュラーは書簡十二をライプニッツに見せ,ライプニッツは後にそれに批評を加えています。書簡十二はマイエルLodewijk Meyerに宛てられたものですが,この書簡は「無限なるものの本性について」という副題がついた有名なもので,少なくともスピノザと親しかった関係にあった人たちの間では回覧されていたものでした。このときにシュラーが見せたのは,マイエルに宛てられた書簡そのものではなく,その書簡を書写したものだったと推測されます。それをシュラーが所持していることは何ら不思議ではありません。
 ライプニッツはこの後,デルフトDelftに向かって,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを訪問したことも確定的な出来事として記述されています。
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